アンダーバレンタイン | 蒼蒼 さん作 |
キリトが、ノーランガルスに"ある風習"があると知ったのは当日だった。 春を祝福する祭日には、好意を持っている男性へ女性がハンカチを贈る。 ――贈るものは違えど、それは紛れも無く……。 現実世界で言う"バレンタイン"と酷似している文化であった。 そして。 モテる者が、モテない者のリソースを徹底的に奪う処も、また同じで…。 「キリト!こら、逃げるつもりだな!」 「すまん、ユージオ。俺はちょっと用事ができて……後は任せた!」 そう言い残して、窓から身を乗り出し、身軽に校舎脇にある木へ飛び移る。 途端、窓から女の子の賑やかな声が響いてきた。 間一髪。 見事な空中回転を決めて、枝から地面に降り立ち、キリトはほっとため息をついた。 別に贈り物位受け取っても良いんじゃないかと思うものの、 そこには、アスナに対する罪悪感と――。 何より恐ろしい、『モニターされていたら』という意識が色々な意味で歯止めをかけるのだ。 「浮気はしてないからな?うん」 誰にともなく呟いて見る。 とりあえず。部屋に帰ろう。 そう思い、歩を進めた時……。 (朝、ソルティリーナさんに来るよう言われていたっけ) ふと、いつも冷静沈着、そして剣の腕は底知れない先輩の言葉を思い出す。 『試したいことがある。今日の放課後、私の元へ来るように』 美声ながら無愛想で感情の掴めない声が脳裏で再生される。 傍から見ると、冷たい印象の強いソルティリーナだったが、キリトが傍付きを拝命している先輩でもあり、 かなり規格外な行動をとるキリトを、学院内でかばってくれる理解ある恩人でもある。 「…ソルティリーナさんの用事って?」 ソルティリーナさんに限って、春の祭日の贈り物を渡すため……という訳では無いだろう。 そんな事を考えながら、キリトの足は学園の先輩の部屋へ向かい始めた。 ◆ ◆ ◆ 「ああ、キリト君か。――丁度良いところに来た」 時々――本当ならいつもで無ければならないのだが――掃除をする為に訪ねるソルティリーナの部屋。 女性の部屋とは思えない機能性を第一に考えられた家具と、手に取りやすい位置に置かれている剣。 そして本棚を埋めつくす大量の書物がキリトを迎えた。 当の部屋の主はと言えば、いつもの無表情のまま、手に何か布を持って難しい顔で考え込んでいる。 キリトに声をかけた時も、その布からは目を離していない。 「いいところ?――ソルティリーナさん、それは?」 少し気になって聞くと。 「見て解らないか?ハンカチだ」 「…いや、解りますけど」 ハンカチを真剣に見つめて何をしているのかを聞きたかったのだ。 まさか、春の祭日の?それにしては、趣が違うような…? 「ああ、用途の説明を希望しているのだな」 「そんな処です」 相変わらず無表情なまま、ソルティリーナが納得というように頷く。 「今すぐ、解る。そこを動かないように」 真剣な瞳で見据えられ、キリトは一瞬で身体を硬直させる。 前にそう言われた時は、剣の寸止めがどの程度まで許されるかを試されたのだ。 (…人を禁忌目録の抜け穴探しの実験に使わなければ、いい人なんだけどな…) 諦めにも似た境地でソルティリーナの行動を待つ。 動きを止めたキリトに、ソルティリーナが近づいてくる。 端正な顔が目の前に迫り――。 ちゅ。 唇に甘い感触。 芳しい香水の香り。 至近距離に、ソルティリーナの美しい瞳。 その宝石にも似た瞳は、冷たく滅多に表情を変えることの無い美貌とは違い、 時折、豊かな感情の色を見せることをキリトは知っていた。 ゆっくり。何度も。 ソルティリーナの唇がキリトの唇を味わうようになぞる。 剣の試合で力強い技を放つ剣豪とは到底思えない華奢な身体が、 キリトを抱きしめる形で押し付けられている。 その柔らかさと体温が心地いい。 数秒後。 思考停止状態に陥ったキリトから、ソルティリーナが離れる。 そして満足げに頷いた。 「布越しなら、禁忌目録に触れることは無いようだ」 彼女は、まだ立ち直れないキリトの傍へ来ると、 「キリト君、協力を感謝する。これは春の祭日の贈り物として受け取ってくれ」 光の加減にしか見えない程、微かに頬を染めて"実験"に使ったハンカチを渡した。 「……ハイ」 反射的に受け取ってしまう。 「では、私は今の実験結果を考察する為、図書館へ行く。またな」 何事も無かったように、ソルティリーナはキリトの脇を抜け去ってゆく。 香水が僅かに香り、先ほどの感触を脳が再生させてしまう。 「今のは、ノーカンだよ…な?」 呆然としたまま、一人残されたキリトは、 誰かに問いかけるように、否、言い訳するように虚空へ呟いたのだった。 |