今日生まれた冒険者 | 陽里 さん作 |
『残念ながら諸君らは二度とログアウトできない』 天からの残酷な宣言が響く。周囲のプレイヤー達は何を言われたのか理解できず、その凡庸な顔を一様に天に向けていた。そして彼もまた、その凡庸な顔を周囲同様空に向けていたのだった。ただ一つ、彼が周囲と違うことといえば 「なんで、現実(リアル)の顔なんだよ・・・」 空に浮かぶこの世界の創造主から告げられた事実上の死刑宣告より、彼にとってはそちらの方が重要なのであった。 MMORPGに限らず、オンラインゲームに何を求めるかは人によって様々だろう。単純にゲームが好きだからだとか、息抜きだとか、あるいは友人を作るため、なんて者もいるかもしれない。だが、多くの人が心の奥底でオンラインゲームに求めているのは、「現実とは違う理想の自分になりたい」というものだろう。ひ弱な少年が屈強な戦士になることも、真面目なサラリーマンが自由奔放な遊び人になることも、人生の曲がり角に差し掛かった主婦が可憐な美少女としてもう一度青春を謳歌することすらできるのだ。大人も子供も男も女も関係なく、自分の望む姿で自分の望むことができる。それこそがオンラインゲームの最大のウリであり、彼、シャティオがこのSword Art Onlineの世界へダイブすることを決めた理由であった。 Sword Art Online外伝 今日生まれた冒険者 陽里 視界の先に一匹のモンスターを捉える。一見すると狼のようだが、サイズが普通の狼とは違いすぎる。軽自動車ほどもあるそいつの名は【グレートウルフ】。単純な名前ではあるが獣系モンスターの多いこのエリアではボス的な存在である。 グレートウルフから数百メートルという距離の茂みの中で、俺は迷彩シートをかぶりながら身長に様子を窺っていた。犬型のモンスターはやはり本物同様鼻がいいのか索敵能力に優れている。迂闊な距離でハイディングなどしようものならあっという間に嗅ぎ付けられてその牙の鋭さを味わうことになるだろう。 俺は視界の端にその巨大な狼を捉えながら腰のポーチの中身を確認する。回復用のポーション、緊急用の転移結晶などの必須携帯アイテムの他は石。全部石だ。丸っこいもの、ごつごつしたもの、消しゴム大のものや握りこぶし程もあるものなど、大小様々な石がポーチの中いっぱいに重量限界ぎりぎりまで詰め込んである。 俺はその中からいくつかを掴むと再びしっかりと標的を見据える。グレートウルフは先ほどの位置から大して移動しておらず、また、周囲に他のモンスターの姿もない。獣系モンスターは基本的に何匹かの群れで移動しているのだがこの巨大狼はそうではないらしい。正に文字通りの一匹狼といったところだろうか。このゲームの開発者はなかなか洒落が分かっているようだ。まあ、だからこそここで狩をしているのだが。 俺がこれから行うことは、最も原始的な狩の方法だ。すなわち、投石。 迷彩シートを払いのけて立ち上がる。ハイディングの効果が切れる。大丈夫、まだ気づいていない。拳大の大きな石を持った腕を振りかぶり、標的に向かって思い切り投げつける。『石を投げる』という明確な意思の元に行われたそれはシステムの補助を受け、STR(筋力)とDEX(器用さ)、そして俺の投擲スキル熟練度によって威力、速度、命中力が算出され、同時にグレートウルフのサイズ、AGI(素早さ)、そしてお互いの距離によって最終的な結果が算出される。 石が命中するのと同時、ギャンっと犬科らしい鳴き声を上げてグレートウルフのHPバーが僅かに減少する。巨大な狼は喉の奥から恨みがましい唸り声を上げてこちらを振り向いた。 眼が、合った。 その瞬間俺は自分があの巨大な狼にターゲッティングされたのだと本能的に理解する。俺が二つ目の石を投げるのと狼がこちらに駆け出すのとは同時だった。後はもう単純だ。奴がこちらに辿り着く前に一発でも多くの飛礫をぶち込んでやるだけ。迫る狼と必死で石を投げつける俺。グレートウルフは数百メートルはあった距離を、飛礫をその身に受けながらも確実につめてくる。お互いの距離が後数メートルになったとき、奴はその顎をいっぱいに開いてこちらにとびかかってきた。 「そう簡単に、喰われてやるかってのっ!」 ただでさえ大きなグレートウルフがその口をさらに大きく開けると、もう目の前は口内の肉の赤と太い牙の白しか見えない。自然と湧き上がる恐怖を押さえつけ、俺は手持ちの石の中で一番大きな物を思いっきりその中にぶち込んでやった。 口の中といったような通常攻撃出来ない場所、特に現実でも決して丈夫ではない部分はシステム的に設定された弱点でもあり、グレートウルフのHPバーが大きく減少する。それと同時に発生する硬直時間。 「もらったっ!」 俺は素早く短剣を構えると短剣スキルの連続技、『ラピッドバイト』を繰り出す。システムの補助を受けた俺の体は驚くほど滑らかに動き、的確に短剣を相手に繰り出してゆく。そして、連激の最後の一撃と共にグレートウルフのHPバーは空になり、その巨体が派手なSEと共に輝く破片に分解されて消えていく。 完全に消滅したのを見届けて軽く息を吐き出す。そして、油断なく周囲を見回して他のモンスターがいないことを確認してから戦闘態勢を解除する。ここで気を抜いたばかりに散っていったプレイヤーを俺は見たことがある。アイテムウィンドウを開いている真横にモンスターが湧き、喜びが一転絶望の顔に変わった名も知らぬプレイヤーの顔は今でも忘れられない。 短剣を腰のベルトに吊るされた鞘に戻しながら手近な木に背を預けてアイテムウィンドウを開く。――これも背後から奇襲されないためのテクニックの一つだ。爪や毛皮、肉といった新たに入手したアイテムを確認し、手早くウィンドウを閉じる。素早く、無駄なく、臆病すぎるくらいに。それが、この世界での俺の生き方だった。 俺は、この世界で生きる。 この世界で、俺は生きる。 シャティオがSAOを始めるきっかけになったのは、とあるゲーム雑誌に載っていた一枚のスクリーンショットだった。現実の世界ではありえない美男美女がひしめく街中を写したスクリーンショット。それはSAOβテスト時代のものだった。美男美女がひしめくということならどこのオンラインゲームでもありふれた光景だろう。彼がSAOを選んだのはただ単に当時最も話題を集めていた作品だからというだけだった。だから、抽選に応募した時もまさか当選するとは思っていなかったし、外れた時はさっさと別のオンラインゲームに手を出すつもりだったのだ。だから、当選しスターターセットが送られてきた時も軽い驚きこそあったものの「ああ、当たったのか」ぐらいですんでしまったものだ。それでも、唇の端が吊り上るのを止めることはできなかった。 これで、俺は変われる。俺は、本当の自分になれるのだ、と。 現実(リアル)でのシャティオはお世辞にも社交的といえる性格ではなかった。話しかけられれば愛想笑いを浮かべて応えるが、自分から話しかけるようなことはしない。周囲の人間は皆、彼をやや非社交的なところはあるものの大人しい内気な少年だと認識していた。そして、彼自身も自分が非社交的であることは理解していた。それがあまりよくないことだということも。だから彼は、中学になったら新しい自分として過ごすことを決意した。周りの人間が自分に抱くイメージに会わせるため、必死に押さえつけてきた本当の自分。新しい環境でならきっとその本当の自分を出せる、と。だがしかし、中学の教室でかつてのクラスメイトを見たとき、彼は小学校の時と違うキャラクターをそいつに見られることをひどく恥ずかしく感じてしまったのだ。だから、最初の自己紹介の時も無難な笑顔で、よろしくお願いします、の一言で終わらせてしまった。それからの三年間は言わずもがなだろう。高校生になったら、大学生になったら、そう願って年を重ねてきたが、どこへ行っても誰かしらの知り合いはいたし、どこに行っても誰かしらの知り合いがいるんじゃないかと危惧してしまい、ついに『本当の自分』を出すことは出来なかった。 彼がVRMMORPG、SAOに出会ったのは大学三年生の時だった。誰もが明らかに本当の自分の顔ではないと分かる美男美女だらけ。これだ、と瞬間的に思った。むしろなぜ今までこういった類のものに手を出さなかったのかが自分でも不思議でならない。既にβテストは終了していたが、正式サービスの参加者を募集していることを知った彼はその日のうちに参加希望の旨をメールで送ったのだった。 はたして俺の作り上げた分身『シャティオ』は、かつて見たSSの中のキャラクターに負けず劣らずの美男子となった。髪や瞳の色、肌の色は現実と変わらずの日本人的な色合いだ。だがその顔のパーツは自分でも恥ずかしいくらいに現実離れしている。いくらゲームとはいえ我ながらすごい(恥ずかしい)キャラを作ってしまった。 「まあ、ゲームだしな」 どうせ他のプレイヤーだって似たようなもんだろう。そんなことを考えながらキャラエディット画面を閉じる。壁にかかった時計を見やれば正午十分前。もうすぐ、俺の新しい人生が始まるんだ。初めてのVRMMORPG、ソードアートオンライン。今まで誰にも見せることが出来なかった本当の自分。それが今、現実の(いや、仮想か?)ものとして姿を現すんだ。 ナーヴギアを装着し、専用のシートに横たわる さあ、行こう。俺の新たな世界へ。唱えるは魔法の言葉。開くのは理想郷への扉。 「リンク・スタート!」 俺の意識は肉体を離れ、空に浮かぶ城へと飛ばされる。 今、『シャティオ』の冒険が始まるのだ。 「ここが・・・ここがアインクラッド」 仮想空間に入って俺が最初に眼にしたのはそびえ立つ巨大な時計塔だった。決して日本には、いや現実世界には存在しないであろう巨大な時計塔。それだけで、俺は自分が今いる場所が仮想空間であることをはっきりと認識した。そして、視線を下ろせばそこには人、人、人。見事に当選した約5万人のプレイヤー達である。 だが、そこで俺は違和感を覚えた。俺が見たβテストのSSではもっと、こう、そうだ。美男美女ばかりだったじゃないか。だというのに、目の前の人の群れは誰も彼もが平凡で、ありきたりな、普段自分が見慣れた現実世界の人間となんら変わりないのだ。おまけに、誰一人として楽しそうな顔をしていない。皆の顔に張り付いているのは一様に疑問と困惑の表情。おそらく、自分も同じような表情をしているのではないだろうか。 そして、俺は急に不安になった。もしかしたら、俺も彼らと同じように・・・。 俺は慌てて鏡を探した。いや、鏡でなくてもいい、ガラスでも、水でもなにか自分の顔を確認できるものなら。 そうして視線を彷徨わせていると慌てた様子で腰のポーチを探る黒衣の少年が目に留まった。彼が取り出したものは鉄製の板状のもの。それを覗き込んでいることからおそらくは、鏡なのだろう。俺も少年の真似をして腰のポーチを探ると、それはあっさりと見つかった。触った質感は確かに鉄のものなのに、全く重さを感じさせないその鉄の板は表面がまるで鏡のように(というか鏡なのだが)磨き上げられ、俺の顔を映し出していた。 そこに映っていたのは俺のよく知る顔で、俺の作り上げた『シャティオ』はどこにも映っていなかった。呆然としている俺の上空では、誰だか知らないがこの世界の残酷なルールを説明していた。もっとも、俺はそれどころではなかったので大して驚けなかったが。 それからの俺の行動は早かった。なぜかは分からないが俺を含むプレイヤー全てが現実と同じ顔であること。このゲームからはログアウトすることができず、また、ここでの死が現実に直結しているであろうこと。それだけを頭の隅に一応貼り付けると、俺は周りを見渡した。ほとんどのプレイヤーは未だに疑惑困惑を顔に貼り付けたまま座り込んで話し合っている。自分が非社交的であることを理解しながら今まで社会生活を続けてきた経験は伊達じゃない。こういう時誰の行動を真似ればいいかはよく分かっている。まず見るべきは真っ先に動き出した者達。そういった者達もさらに二種類に分かれる。一つは未だ顔に疑問符を浮かべながらもとりあえずどこかに走り出した者達。もう一つはしっかりとした足取りで明確な意思を持って走り出した者達。当然俺がついていくべきは、後者だ。そして、そういった人物を探すべく周囲を見渡す俺の横を黒い風が駆け抜ける。先ほど俺の目に留まった黒衣の少年だ。その足取りに迷いはなく、一直線にどこかに向かって駆けていく。 目標発見。俺は素早く身を翻し、少年の後を追って駆け始めた。 案の定、少年は素早く、無駄のないルートで武器屋、防具屋、道具屋を周り装備とアイテムを整えてしまった。それに便乗した俺の装備も一通りは揃っていた。だが、装備は何を基準にしていいか分からなかったのでいささか適当な感はあるが、それでも今現在のプレイヤーの中ではかなり早く装備を整えたことになるだろう。 ちなみに俺の選んだ武器は短剣だった。名前も何の変哲もないただの【ナイフ】。あの黒衣の少年は片手用直剣を買っていたようだが、竹刀すら握ったことのない俺はとても使える気がしなかったので止めておいた。少年は店内で軽く剣の素振りを終えるとまたどこかへ駆け出してしまった。 「あ、やべっ」 俺も慌てて少年を追って店の外へ出る。既に少年の姿は遠いが、その先にはこの街をぐるりと囲む巨大な壁しか存在していなかった。 「街の外、か。ということは・・・・・・」 普通のRPGと同じように考えるなら、街の外には当然モンスターが出るのだろう。つまり、あの少年はプレイ開始から一時間と経っていないのに街の外へ狩に出かけたのだ。街の中を淀みなく走る様子といい、やはり彼はβテスト経験者、それもかなりの有力プレイヤーだったのだろう。 自分の人を見る眼を自画自賛しながら俺も外壁へと向かって駆け出していく。 そこに何が待っているかも俺は知らずに。 「うわー・・・・・・」 外壁を抜けた先の景色に、俺は思わず感嘆の声を上げた。一面に広がるのはゲームではありふれた、しかし日常では絶対に見ることのない広大な平原だった。俺はしばし呆然と立ち尽くしてその光景を眺めていた。まさか、ここまでリアルだとは。 しかし、その沈黙も長くは続かなかった。突然、謎の音が響いたからだ。いや、違う。『音』じゃない。『声』だ。烏の鳴き声と蛙の鳴き声を足したような不気味な『声』。素早く体をそちらに向ける。はたしてそこにいたのは、子供くらいの身長の不気味なモンスターだった。その手に握られているのは無骨な棍棒。警戒しながら相手を睨む。すると、突然カーソルが出現しモンスターの上に文字が浮かび上がる。〈Goblin〉、RPGで最もオーソドックスなモンスター、ゴブリンだ。ゴブリンと聞けば誰もがゲーム序盤の雑魚を思い浮かべるだろう。俺もそうだ。だけど、目の前のこいつは・・・・・・。 (怖い・・・・・・) 濁った眼、荒い息、だらしなく垂れ流される涎。どこをとっても知性など欠片も感じられず、それ故にこいつが本能のみに従って動いていることを一層際立たせる。 (どうする・・・・・・、いや、やるしかないんだ!) 恐怖で足が震えそうになるのを必死に抑えて戦うべく意識を切り替える。俺は先ほど買ったナイフを取り出すべく腰のポーチに手を入れる。 (・・・・・・あれ?) ない。ゴブリンから視線を逸らさずに手探りでポーチの中を探るが先ほど買ったナイフが一向に見つからない。 「そんなばかな!?」 思わずゴブリンから視線を外してポーチの中を覗き込む。ポーチの中には先ほど容姿を確認するのに使った鏡を含めてごく僅かな品物しか入ってはいなかった。 ばかなっ。ナイフも、回復剤も何もかも入ってないなんて、じゃあ俺が買った品物はどこへいったんだよ!? 俺が驚くのと同時、ゴブリンはそれを隙と受け取ったのか一際甲高く鳴いて猛然とこちらに向かって駆け出した。 「う、うわっ、うわっ!」 ゴブリンが振り下ろした棍棒を何とか避ける。やはりゴブリン。動き自体はそれほど速くはない。しかし、慌てていたこともあって僅かに体を掠めてしまう。痛みは全くない。ただ、僅かに体を振動が襲ったのと、視界の隅のバーが僅かに減少しただけだ。 俺の命が今、確実に減った。 「あっ?あ、あっ、あっ、あああああぁあぁぁぁ!」 減った。今。俺の命が。なくなったらどうなる?死ぬ?死んだらどうなる?死んだら、ここで死んだら、本当に、死ぬんだ。 確証も何もないのに、俺は何故かここで死ぬことが現実(リアル)での死だと当然のように感じている。それは、俺が他のVRMMOゲームを知らないからかもしれないし、目の前の醜悪なモンスターに怯えているせいかもしれない。でも一つだけ言える。俺は、酷く混乱していた。 そんなことはおかまいなしに、再びゴブリンの棍棒が振り下ろされる。揺れる。バーが減る。俺の命が音を立てて削れていく。 「うああああああああぁぁ!?」 逃げろ、逃げる、逃げなきゃ、死ぬ! 俺は脚に力を入れて逃げ出そうと・・・・・・!? なんでだっ、何で体が動かないっ!? 動けないでいる俺に、ゴブリンは振り下ろした棍棒をそのまま右へ薙ぎ、左へ薙ぐ。 揺れる。バーが減る。命が削れる。揺れる。バーが減る。命が削れていく。HPバーが半分を切った。 「ああああああああぁっ!」 そして、三度ゴブリンの棍棒が大きく振りかぶられる。 くそ!くそ!死ぬ!死ぬ!死ぬのか殺されるのか!たかが、たかがゴブリンなんかに!まだ始まって一時間も経っていないのに!くそ!動けっ!動け動け動けっ! 振りかぶったまま一瞬力を溜めた後、今まで以上の勢いで振り下ろされる凶器。それがあたる直前、ようやく体を襲っていた束縛感から解き放たれた。 「っ!? くっ、そ、があああああぁああっ!」 束縛から解放された俺は体の中に渦巻く激情を吐き出すかのように咆哮と共に右足を突き出した。それは今まさに俺を打ちのめさんと腕を振り上げたゴブリンの腹に深く突き刺さり、そこから眩い光を発生させる。――後にそれは、クリティカルヒットのエフェクトだと知ったのだが。 気がつけばお互いの間には数メートルの距離が出来ていたが、眼を凝らしてみればゴブリンのHPバーはまだ半分ほども残っている。ゴブリンは先ほどの俺の一撃がたいそう気に障ったらしく、鼻息も荒くこちらを睨みつけてくる。 息が荒いのはこちらも同じで、心臓は未だに早鐘を打ち続けている。デジタルの体にそんなものがあるはずはないのに。左手で胸を押さえながら、俺はそっとしゃがんで足元の石を拾い上げる。こんなものでも、牽制代わりにはなるだろう。ゴブリンが一歩足を踏み出そうとする。 「っ、来るなっ!」 しまった。思わず反射的に石を投げつけてしまった。俺の手を離れた石は思った以上に貧弱な勢いでゴブリンに向かっていく。くそっ。俺は力いっぱい投げたはずなのに。これもゲームの中だからなのか。 こつんっ、と軽い音を立ててゴブリンの頭に当たった石が落下する。俺が投げた石は牽制になるどころかほんの僅かのHPを削るだけで逆にゴブリンを怒らせてしまったようだ。 「くそ・・・・・・」 思わず呟く。HPで言えば両者のバーの長さは同じくらいだ。だが、こっちは何故か買ったはずのナイフが消え、戦い方だってよく分かっていないのだ。どちらが不利かなど、わかりきったことだ。 ゴブリンは今にも飛び掛ってきそうな程興奮している。多分、次かかってこられたら終わりだ。次かかってこられたら、死ぬ。だというのに、俺の心は不思議な程落ち着いている。先ほどあれだけ取り乱したせいだろうか。きっと、違う。きっと・・・・・・いやいやいや、違うだろう。今はそんなことを考えている場合じゃない。今考えるべきはこの状況をどう打開するかだ。どうすればいい。どうすればっ。 緊張して僅かに力の入った足がじゃりっ、と砂を噛み締める。それを契機にしたのか、ただ本能のままに動いたのかはわからないがゴブリンは勢いよく駆け出す。くそ、バカ、まだ来るなよ。どうする。かわすか?迎え撃つか?できるのか?俺に?バカ、考えてる場合か。動け。何でもいい、まずは動け。でないと。でないと、どうなるんだっけ?ばか、動け。動かないと死ぬんだよ。死ぬ?死んだらそのあとどうなるんだっけバカ死んだらなにものこらないだろうお前がまずやるべきは動いてにg――。 加速する。思考が加速する。死を前にしても俺の思考は過去の想い出を再生することもなくただ無限の円環をくるくると廻り続ける。くるくる。 無骨な凶器が眼前に迫る。動けない。逃げられない。 棍棒が髪の毛に触れる。神経のないはずのそこが押しつぶされるのを感じる。 ああ、俺、死んだな・・・・・・。 狂気に満ちた凶悪な凶器が頭蓋を砕く直前、漆黒の風が俺を凪ぐのを感じた。漆黒の風が醜悪な化物を薙ぐのを見た。 頭蓋を砕くはずだった棍棒はそのベクトルを直角に変えて飛んでいく。その持ち主も飛んでいく。そうして数メートル吹き飛んだところで派手な音を立て光の欠片に分解されて消えはじめる。 死んだと思った。死んだと思う。いや、死んでしまったんだ。目の前で光の欠片に分解されているのは俺だ。俺の死骸だ。きっと、おそらく、おそらく、俺の中の何かがあの時死んだ。漆黒の風に薙がれて、凪がれて、流れていった。だから今、この体を動かしているのは、俺だ。本物の俺だ。偽者の俺は死んでしまった。ハ、馬鹿げてる。興奮している。昂ぶっている。何を言ってるんだ。でもいい。そういうことにしておこう。今ここにいるのは――。 「大丈夫だったか?てっきりβテスト経験者かと思って助けるのが遅れた。すまない」 「いや、助かったよ少年。ありがとう」 俺は今まで使ったこともない尊大な言葉で突然現れた黒衣の少年に礼を述べた。 「さっき買ったナイフはどうしたんだ?あれがあればまだ何とかなっただろうに」 「いや、それが見つからなくてね。どこかで落としたかな」 はは、と乾いた笑いを浮かべて応える。さっきまで死にそうな体験をしていたというのに、自分でも信じられない。 「店で買ったものはまずアイテムウィンドウに格納されるんだ。当然だけど、装備しないと効果はない」 彼の言葉は言外に、いや、直球にか。俺が初心者であることを見抜いていると告げていた。まあ、事実だが。 「ああ、道理で」 まったく、なんて単純で初歩的なミスなんだ。でもそんなことさえ笑っていられる。まずい。本格的に壊れたかもしれない。俺。 「・・・? どうしたんですか?」 肩を震わせて笑う俺を不審げに見ながら少年が訊ねる。何気に敬語になってるし。ちょっとひいてるのかもな。 「いや、なに。・・・生きてるなぁ、と思ってさ」 生きている。死んでしまった俺もいるけど。やっぱり俺は生きている。 それをきいて、少年の表情も緩む。 「ああ、生きている。俺達はちゃんと生きている。だから、ここからも絶対生きて帰る」 再びタメ口に戻って、少年は空を見上げる。いや、空よりもずっと近くてずっと遠い場所を見つめ、少年は力強い口調で言った。 「何、少年はここで死んだら本当に死ぬって信じるクチ?」 「信じてるよ。あの人、茅場なら本当にやる。アンタは?」 「信じるよ。今、信じた。多分、ここで死んだら本当に死ぬ。間違いない」 だって、多分俺も死んだからな。 「だからさ、よかったら少し教えてくれない?ここのこと」 ああ、やっぱりこれは以前の俺じゃない。以前の・・・ ・・・はこんなことは人に言えなかった。 「ああ、構わない。またあんなに危なっかしいところ見せられたら集中できないからな」 「ありがとう。じゃ、少しよろしく頼むよ。俺は・・・・・・」 俺は――。 「俺はシャティオ。よろしくな」 「キリトだ。よろしく」 俺は黒衣の少年、キリトの手を取った。これが、後にこの馬鹿げたゲームを終わらせる英雄との出会いだった。 公式記録ではSAO最初の死亡者は開始三時間で自殺したキャラクターだ。だけど、きっと一番最初に死んだのは俺だ。俺の中にいた、あるいは今まで俺だったキャラクターが一番最初に死んだんだ。 俺はシャティオ。今日、生まれたばかりの冒険者だ。 後書き あれー?ホントはSAO内でも現実と同じ顔のため、リアル同様人付き合いがうまくいかなくて中層あたりでドロップアウトして引きこもってるシャティオ君を書くつもりだったのにどうしてこんなことに? び さんの作品とSS保管庫作成に刺激を受けて勢いで書いてしまった陽里です。 冒頭で書いた森って言うのはアスナとキリトの家がある22層エリアにしようと思ったんですけど、フィールドにはモンスターが出ないらしいので、その付近のフロアも同じように森フロアが続くという想像で書きました。22層は休憩場所的な意味合いのフロアで、他の森フロアは獣やら虫やらがわんさか湧くフロアって言う感じで。 ちなみにシャティオ君の名前はぱっといい名前が思いつかなかったので私のHNのアナグラムで作りました。いささか単純すぎますかね。 今回思いがけずシャティオ君の始まりの物語になりましたが、もしも次回書くような機会があれば当初予定していたシャティオ君引きこもり編を書いてみたいと思います。 それでは。 2006/3/14 Hisato |