語られなかった物語 〜 もう一つの戦い 〜 後編くりさぶれ さん作








Sword Art Online 語られなかった物語 〜もう一つの戦い〜

(後編)






「こっちの事は俺らに任せて後輩さんのところに行ってあげな、って言ってくれた人がいたんだよ。
 こんな時に悪い、とも思ったけど甘えさせてもらった。」
リビングで着ていたベージュのトレンチコートとふわふわした黒いマフラーをハンガーにかけながら、先輩はそう話した。コートの下はダークグレーのスーツ上下で、文字通りまっすぐここへ来てくれたのがわかる。
先輩だって、あの混乱の直撃をうけて疲れているだろうに。
改めて、感謝の気持ちと申し訳なさがこみあげてくる。
もっともそれを言えば、玄関で先輩の顔色が悪いと指摘したときのように、俺と美沙に相応の言葉が返ってくるのだろうが。(「顔という点ではあんた達も人の事言えないよ。弘、コーヒー飲みな。3日徹夜したようなツラしてる。美沙、あんたは顔を洗っといで。明日がひどいことになるからね。あたしは先に部屋で待っているから…」)
「本当にすみません。
 これからサンドイッチ作ろうとしていたんですけど、先輩も食べますか?」
どっかりとソファーに持たれかかった先輩の顔が、少しだけほころぶ。
「お願いするよ。朝からまともに食べていないんだ」
「…わかりました」
キッチンへ戻る。一度片付けた食パンを取りだし、4枚切って皿の上へ追加。水を止めて卵の殻をむき、野菜と一緒に薄切りに。パンは3分の一だけ残してマヨネーズとマスタードを塗って、その上に適当に材料をのせていく。
ユニットバスの方からは、まだ水の流れる音がしていた。





座れるものが2人がけソファーと製作用の折りたたみ椅子しかない、という状態は意外と考え物なのかもしれない。まず、今俺達がいる部屋は前にもちらと言ったがキッチン兼リビングの部屋であり、2つ合わせて6畳半から7畳ほどの広さだ。そのうちのリビングにあたる部屋は四畳半あるかないかであり、キッチンから出てくると正面に大きな窓が広がっている。そしてキッチンと窓を結ぶ線と交差するようにソファー・机・テレビの順で配置してある。普段なら来客2人にはソファーに座ってもらい、俺はテレビの前へ折りたたみを引っ張り出すのだが、今日はそういうわけにもいかなかった。
まず美沙と先輩が一緒に座る案は、満場一致で話がしづらいと却下。
続いて先輩がソファーで美沙が折りたたみ、俺は立ちっぱなしという案がでた。
これは途中までうまく行くかと思われたのだが、「いい年した大人が立ったまま物を食うな!」とのお言葉によりまたもや却下。
かくして。
鶴の一声で決定した、俺と美沙がソファー、先輩が折りたたみという現在の構図に至る。ちなみにその鶴は現在、正面でサンドイッチの食事中。確かにそんな事で議論している時間に食べたい、という先輩の言い分はもっともだが、呼びつけたこちらとしては少々心苦しいものがあるというものだ。
近いうちに中古品のソファーでもさがしておこう。
そんな事を考えているうちに、いつのまにか皿は空になっていた。
湯気の立つカップの中身を数口飲み、先輩は大きく息を吐く。
「………ふぅ。これで生きかえったよ。
 しかしまぁ弘。いい食べっぷりだったねぇ。」
思わず返答に詰まる。
しばらく考えた末、俺はマグカップに救いを求める事にした。
確かに…美沙と先輩を差し置き、一番食べていたのは俺だ。
自分では大してお腹がすいたと思えなかったのだが、いざ食べ始めてみればなかなか止まらず、結局用意したサンドイッチの半分は俺1人で片付けてしまった。考えてみれば昼飯をとる直前に例の速報を見てしまったから、先輩と同じく俺も朝から何も食べていない状態だったのだ。
誰だっただろうか。何をしなくとも腹は減る、と言った人は。
ちなみに今俺達が飲んでいるのは先輩のリクエストにより、コーヒーではなく砂糖入りホットミルク。ここ10年はご無沙汰だった味だが、不思議と気分が落ち着く。
「でもおいしかったよ。どうもごちそうさま、弘」
「いえ…。………アーガス、大変みたいですね」
「あぁ。ひどいもんさ。あれは戦場を通り越して、修羅場だ」
乳白色の液体を一口飲み下して、先輩は話を始める。
「ただでさえ運営開始直後はやる事が山積みだって言うのに全国からどういう事だ説明しろって電話はかかってくるし、上層部はヒステリックになってまともな指示を出してくれないし。大川さん…ああ、この人剣技システムのチーフなんだけどね、その人が冷静でなかったら今もあたしはアーガスにいたね」
ちなみに早くあんた達に会ってあげなって言ったのもこの人、と付け足して先輩は続ける。
「ようやく社内の雑用と混乱も少し収まってきてじゃあお昼にしよう、と思ったらハイエナどものおかげで食料品の買出しには行けないし、ちょっとでもカーテンを動かせばフラッシュの嵐だし。夜になれば少しは減るだろうと思っていたけどむしろ増えるばっかりで、結局正面口じゃなくて非常口から帰るハメになっちまった。それでも途中で何回か啖呵切っちまったから、明日あたしが槍玉に上がっても驚くんじゃないよ」
「いや、それってかなりヤバいんじゃないですか先輩」
「嘘がつけない性格ってのは不便なもんだって授業料だと思えばいい。どうせすぐに忘れられるよ。今回の事件の方がよっぽどいい標的だからね」
一拍鋭く息を吸う音が聞こえた。
カップを手に取る先輩の表情が、辛そうにゆがむ。
「今回の件で、アーガスは業界と世間の信頼を失った。
 今から殺人未遂で訴えてやるって息巻いてるお客さんもいたしね…。
 きっとそう言う人は、増える事はあっても減る事はない。
 開発部長の個人資産は結構な額がまとまっているそうだけど、
 これからのことも考えるとそれだけじゃ絶対に足りないだろう。
 …アーガスが倒産するのも時間の問題だね………」
「え?」
美沙の声にしまった、という表情を作る先輩。
が、やがて小さくため息をつくと、柔らかく笑った。
「あたしのことはいいんだよ。いざとなればどうとでもなるから。あんた達が気にする事じゃない」
でも、と言いかけた美沙を制止するように先輩は言う。
「それよりもリョウ…5万人のユーザーだ」
顔を見合わせる俺達。
口を開いたのは美沙。
「…先輩も、リョウ君に連絡したんですか?」
「も、ってことは…あんた達はしたんだね?」
「………はい」
正確に言うと、連絡したのは美沙だ。
俺に電話をかける前、茅場晶彦の『ゲーム内での死は現実の死となる』発言を聞くや否や、わずかな可能性をかけてリョウの携帯に電話したそうだが、受け答えたのはリョウ本人ではなく、リョウの声の留守番応答メッセージだったそうだ。
曰く、しばらくの間電話やメールには答えられない。5時ごろに戻る予定なので、その時改めて連絡してくれ。メッセージをどうぞ。
…固定電話ならともかく、携帯にこんなメッセージを残すからには………状況から言って、やることは一つしかない。その事を話すと、先輩は静かに頷いた。
「セレモニーの開催前に、初回分を購入したユーザーは全員ログインしていたよ。
 …リョウも、そのうちの1人だったから………巻き込まれちまっただろう」
何か鋭いもので、心臓を一突きされた気分だった。
これでリョウがゲームに閉じ込められた事は確定してしまった。
それで、と先輩は続ける。
「だいたい想像はつくけれど………あんた達があたしに聞きたい事ってのは、なんだい」
「リョウは、いつ戻ってくるんですか」
聞いた後で後悔した。
確かにそれを聞きたくて先輩に連絡をとったが、それは事の核心そのものでもある。ことに、先輩の一瞬こわばった表情をみると。
………聞く俺達はもとより、話す先輩にとっても…きつい話のようだ。
しばらく時間までが硬直する。

「………また単刀直入に聞くね。あんたは…」

重い空気を破ったのは、先輩だった。
何度か迷うように視線を右往左往させると、唐突にマグカップの中身を飲み干した。そして、どこか決然とした表情で、まっすぐに俺達を見つめる。

「あんた達は、プレイヤーが自分の意思でログアウトできなくなったことは知ってるね?」

同時に頷く俺達。
…辛い話が始まった。

「まずそこで、戻ってくるための方法が一つ消える。ナーブギアのセーフティー機能もいじられているって話だから、さらにもう一つ。残るのはあたし達スタッフが、システムを修正することだけど…」

そういってマグカップを口に近づけたところでとうに飲み干されていることに気付き、手持ち無沙汰気味な表情でカップは机に戻される。

「セレモニーの直後に開発部長の自宅にあったコンピューターとアーガスのメインサーバー、それにメインコンピューターのひとつを調べたんだけど、どれもちらっと見ただけでよくやるよと思うような複雑なセキュリティが組んであった。あたし達が何十人束になってかかっても、解除できそうにないやつがね。流石は茅場開発部長だよ。
 ………本当に、悔しいけど…お手上げだった」

一言一言かみ締めるように話す先輩の口調から滲むのは、どうしようもない悔しさとやるせなさ。

「それでも、最初はどうにか解除して見せようってことであたしらの意見はまとまっていたんだ。CGの製作スタッフにも、娘さんがゲームに閉じ込められたって人がいたからね。だけど、…下手にいじくりまわしてシステムに感知されたら、即座に5万人の命がない、と言われてしまえばおしまいさ。
 ………解析も、修正も…………諦めるしか、なかった。
 これは明日公表する情報なんだけど、今もアーガスの上層部と政府のお偉いさんが協議しているんだよ。全国5万人のユーザーの体を保護するために、あちこちの病院を緊急手配しているんだってさ。聞けば今回の事件で政府に新しい部署ができたって言うしッ…!開発部長1人で、日本中がひっかきまわされたんだ」

最終結論の前に、話から少し脱線した事を話すのは、先輩のクセだ。
………とても厳しい事を、言わなければならない時の。


「結論から言うと…リョウが戻ってくるために、あたしらがこっちでできる事は………何もない」


―――嘘のつけない、先輩らしい言葉だった。
それだけは聞きたくなかった、言葉でもあったけれど。
何も言えない俺のかわりに、半分涙声の美沙が叫ぶ。

「そんな…!先輩が…みなさんが組んだプログラムもあるんですよね………?!」

頷くものの、先輩の表情は晴れない。

「情けない事にね…美沙。
 あたしらが組んだプログラムは、剣技やモンスター、NPCに関することがせいぜいで…攻略に関する特殊なプログラムやメインシステムは全部、茅場開発部長が1人で作り上げたものなんだ。だからもし、ベータテスト以降に開発部長がシステムに改造を加えたとしても、あたしらには知る術がないし…。仮にセキュリティを解除できたとしても、一時間以内で修正するのは………不可能に近い。メインシステムの該当部分を見つけ出すだけでもかなり時間がかかるだろうし、そうちょくちょくメインサーバを停止させるわけにもいかないからね。…おまけに開発部長は、ナーブギアの開発にも携わっていた。…あたし達アーガスの製作スタッフの何倍も、ナーブギアの基本理論やシステムを理解している………。付け焼刃の知識じゃ、到底たちうちできない」

途中から先輩は、ずっと視線をそらしていた。
俺達の顔を、見なくて済むように。
ことに、絶望的な表情をしている美沙と…目が合わないように。
そんな事を言わないでください、と叫ばずに済んだのは助かった。
ここで感情的になっても、先輩を傷つけるだけだ。
もう冷めてしまった甘い牛乳が、ヒステリーの特効薬になった。
ひんやりとしているぶん、効果が増幅したようにも思う。
…ひょっとして先輩は、このためにホットミルクをリクエストしたのだろうか。
俺達も、自分も、冷静に話ができるように願って。
喉の奥から、どうにか声を絞り出す。

「………じゃあ、リョウはもう2度と…」
「いや、そういうわけじゃない。」

きっぱりとした口調。
目を丸くした俺に、辛そうな表情はかわらないものの、それでも先輩は言う。

「それは違うよ、弘。慰めにもならない方法だけど、助かる方法はちゃんとある。…牛乳飲みな。美沙。落ち着くから。」

初耳だった。
ニュースではそんな話、一言も出ていない。
自分自身に言い聞かせるような言葉が、ゆっくり耳に流れてくる。

「ソードアート・オンラインは100層にいるラスボスを倒せばゲームクリアになる。ゲームクリアさえすれば、ユーザーは現実に戻ってこられるんだ。これは開発部長が直接言っていた言葉だから、間違いない」

あ、と美沙が息を飲んだ。
思い当たる節があったのだろうか。
そいつが嘘をついている可能性は、と尋ねかけて俺は止まった。
先輩がじっと俺を見据えている。
そして、静かに首を振った。―――横に。

「ハイエナどもがこの事を報道していないのは、万が一にも”大嘘つき”になりたくないからだよ。システムが解析できないから確証はないし、事件の規模も大きい。あんた達のような思いを抱えている人は、全国にたくさんいるからね。けど、この後に及んで茅場チーフも嘘なんか言わないさ。だからあたしは、セレモニーでチーフが言ったことは、全部本当のことなんだと思っている。ゲームクリアさえすえば…絶対にみんな帰ってくる。
 ――――――だけどね………」

うつむく先輩。震える肩。かすかにかすれた、語尾。

「ベータテストの時でさえ、千人が10層まで攻略するのに半年かかった。まして、自分の命がかかっているとなれば………5万人がかりでも、100層まで辿りつくのに…どれだけ時間がかかるか………」

話ながら先輩は、固く両手を握り締めていた。
あまりに強く握りすぎて、拳が白くなっている。

「…ごめんよ、美沙。弘…。
 …あんた達の友達が…あたしの後輩が、あんないかれたゲームに閉じ込められちまったっていうのに………製作者の一人であるあたしが…無事を祈る事しかできないんだ………。
 ……………くそったれが…!!」

ぽたり、と拳の上に水滴が滴った。
つられるように、隣からも静かな嗚咽がこぼれ始めた。
俺だけが、泣くこともできずにその場でただ呆然としていた。
けれど、それでもぼんやりと思った。

今回の事件で一番辛い人間など、決められる訳がない。一番巻き添えを食ったのは、リョウを含む5万人のユーザーだ。でも、一番悔しいのは、歯がゆいのは、先輩含むアーガスの製作スタッフなのかもしれない。自分達の作った、手のうちをほとんど知り尽くしているゲームなのに、何もできない。現実から精神世界への、連絡手段さえ見付からない。できる事はただ、ユーザーの無事を祈る事だけ。
―――俺達は、本当に待つことしかできないのだ………。
誰かが、ゲームクリアを迎えるその日まで。



…………………?



………ちょっとまて。
…………ゲーム………クリア…?



すぅっと何かが突然見えてきた気がした。
さっき聞いた先輩の言葉が蘇る。


『ソードアート・オンラインは、100層にいるラスボスを倒せばゲームクリアになる。ゲームクリアさえすれば、ユーザーは現実に戻ってこられるんだ』


…最上階にいるラスボスを倒せば、ゲームクリア。
今度は意識の奥から、つい最近聞いたリョウ言葉が蘇る。


『お前なぁ、ナーブギア完成って全国でもニュースになったじゃねぇか。その時散々説明してたぞ?いいか、人間ってのは耳や目からはジョーホーを集めてるだけで、それを処理してるのは脳ミソなんだよ。だからその部分に刺激を与えてやれば、実際には見てなくても”見てる”状態になる…らしい。…………難しい事はどーでもいいんだよ。俺が言いたいのは、ナーブギアを使えば寝たままでも見たり話したり運動ができるってことだ。しかもSAOは、現実じゃどんなド素人でもスキルを極めれば凄腕剣士になれるゲームなんだぜ?』


………現実では、どんなにド素人でも。
スキルを極めれば、凄腕剣士に。




……………………!!




「―――先輩。SAOの剣技は、どんなものなんですか」


美沙と先輩が同時に俺の方を見た。
言ってから俺も驚いた。
どうしてだろう。
なんで俺は、…こんなにしっかりした声を出せているんだ?
それだけじゃない。
いつのまにか、焦りも、もどかしさも消えていた。代わりにこみ上げてきたのは、こんなに絶望的な状況でどこから現われたのかと思ってしまう感情。それだけが、俺を支配する。
「教えてください。どんなものなんですか」
戸惑いながら、涙目のままで。
それでも先輩はしっかりと答える。
「…そうだね………。
 あれは自分が剣士になるっていっても、システムで見れば格ゲーとかで技を出すのに似ているよ。一度技を習得すれば、本人の意思でいつでも発動できる。硬直時間っていうペナルティーはあるけれど」
また、俺、が言った。



「なら、きっと大丈夫だ」



目を丸くした2人に、話しかける声がする。
「先輩も知ってますよね。俺、一度もリョウに格ゲーで勝てた事がないんです」
一言口に出すたびに胸の奥からこみ上げてくるのは、何もできない無力感でもなければ、茅場晶彦を憎む気持ちでもない。
何の根拠もない…エゴとさえいえるもの。
その場しのぎの、自己満足だ。
けど。
あいつなら、リョウならきっと、叶えてくれる。

「SAOを攻略する手段の剣技が、リョウの得意な格ゲーに似ているなら怖いものなしだ。リョウはきっと帰ってくる。ゲームクリアして、生き残ってやるって思っているはずだ。
 …あいつが頑張るのに、俺達が諦めてどーすんですか!!!」

そうだ。
まだ全員死ぬと決まったわけじゃない。
希望が、全てなくなったわけじゃない。
これ以上ないほど絶望的な状況だけれど、確かに希望は残っている。
ゲームのなかのプレイヤーには、クリアのためのチャンスが残されている。どれだけ時間がかかっても、たった1人でもゲームをクリアしたら帰ってこられる。
それなら、帰ってくるまで待っていよう。
リョウが帰ってきた時『お帰り』というために、帰ってくることを信じよう。
それまでは、絶対に諦めたりしない。
―――こんな所で…諦めてたまるか!!!

「祈る事しかできないなら、せめてあいつを信じます。
 リョウは絶対帰ってくるって。
 あんなゲームに閉じ込められたぐらいで、死んだりしないって」

言い切ったあとには、また静寂だけが残った。
だが不思議と、重苦しい感じはしない。
俺の中で何かが、ほぼ完全に吹っ切れた。
長い沈黙を破ったのは、ずっとうつむいていた先輩だった。
「…そうだね。まだ………何もかも、始まったばかりなんだ。
 今から弱音を吐いて、あたしはどうする気だったんだろうね」
ぐいと涙を手の甲で拭うと、先輩はしっかり顔をあげる。
「ありがとう、弘。」
今日は良くも悪くもびっくりする事続きだ。
まさかお礼を言われるとは思わなかった。
「おかげであたしにも、まだ何かやれる事が見付かりそうだ。
 たとえシステムを修正できなくても、絶対に今のままで終わらせやしない」
そう言って、モニターが始まりの街にあるなら云々、茅場チーフもこの部分は手だしがどうこう、これを少しいじればとしばらく何か考え込んでいた先輩だったが、ふと穏やかな表情で笑った。
「それにしても………祈るしかないなら信じる、か…。
 弘。あんたも言うようになったじゃないかい」
「え…変ですか?」

何かを企むような、先輩の笑顔。

「バカ言ってんじゃないよ。誉めているんだ。ちょっと前まではリョウに引っ張られなきゃ何もできそうにない坊ちゃんだったくせに…」
「………えっと。それ、誉め言葉に聞こえませんよ先輩」
「しょうがないだろう。弘はどうにも頼りないイメージが先に立つんだよ。リョウに振り回されてる所しか見たことなかったからかねぇ?」
ますます、誉め言葉に聞こえない。
大きくため息をついた俺を、先輩が笑う声が聞こえた。
それがさらに気分を沈める。
…確かに、自分でも情けないと思うことは多々あったけれど………。
まさか「頼りない」にまで昇格して評価されているとは思わなかった。
意図したわけではないのだが、どうしても肩が落ちてしまう。
そしてその瞬間思い出した。
やっぱり頼りないといわれてもしょうがないのかもしれない。
今の今まで、美沙が一度も会話に参加していない。
俺は隣を見た。
視界の端で先輩が、同じように顔の向きをずらすのが見えた。

美沙は、泣きやんでいた。
うつむいているわけでもなかった。
ただ、もう何ものっていない皿を、じっと見つめている。
…いや、皿を見ているわけじゃないのかもしれない。誰かが考え事をしている時は、目の前に何があったとしてもそれに焦点があるとは限らない。
しばらくして、美沙は皿から視線を外した。
そこから左へ…つまり、俺の方を向く。

「………ヒロ君」

小さな声だった。でも、きっぱりした口調だった。
まだ不安そうだ。けれど、視線はまっすぐだった。
そのまま、独り言のように言う。

「帰って、…くるよね」

即答できた。

「ああ。少なくとも、俺はそう信じる」
「………うん」

そして美沙は、いつものように―屈託のない明るい表情で―笑った。

「そうだね…」

そういってしばらくごしごしと目をこする。
が、なぜかいきなりその手をとめた。
いぶかしむ俺と先輩の前で、一言。
「………なんだか…眠くなってきちゃった……。」
一気に力が抜けた。決して夜に弱いわけではない美沙だが、こうも緊迫続きでさすがに疲れたのだろう。先輩がそれに便乗する。
「そうだねぇ…。いい加減遅い時間だし、あたしもそろそろ帰ることにするよ。
 明日からも戦場が待ってるからね。ほら美沙。眠いだろうけどもう少し頑張りな。車で送ってあげるから、そこで寝ればいいよ。」
泣き疲れに気の緩みの相乗効果で、すでに美沙は白河夜船をこぐ寸前だ。
そんな美沙に苦笑して、先輩は手早くハンガーからコートを外し、袖を通す。
そして、ハンドバックからキーを取り出した。





「本当に外までいかなくていいんですか?」
「寒いからね。あんたも大事な時期だろう?風邪ひかせるわけにはいかないよ。」
革靴を履く先輩の隣で、美沙はスニーカーの紐を結びなおしていた。
時折目をこする。相当眠いらしい。
まぁ一晩ぐっすり寝れば、はれてしまった目元もちゃんと治るだろう。
やがて先輩は立ちあがり、美沙がそれに続く。
扉が開かれると、夜の冷たい空気が侵入してきた。
振り向く先輩。
「どうも邪魔したね。」
「何言ってるんですか…」
先輩の言葉は社交辞令だとわかっていても、心からそう言った。
もし先輩から話を聞けなかったら、今の心境に辿りつくまで何日かかるかわかったものではない。ひらひらと手を振る先輩と、眠そうな美沙を向こう側へ残し、
ゆっくりと扉は閉まった。

静かになった。

誰もいない廊下で、大きく息をはく。不安からではなく、一種の安堵から。
………大丈夫だ。
まさかという不安は消えないけれど、それでも光明は見えた。
いつも通りの生活には…当分、戻れそうにないけれど。
それでも、とりあえず明日キャンパスと向かい合えるだけの力はでてきた。
…おばさんに、連絡しないとだな。
携帯を取り出した俺の耳に、遠くからエンジン音が流れ込んできた。





腕時計は、もう日付の変わり目にさしかかろうとしている。そろそろ寝ないと明日起きられるか自信がない。早朝のバイトが入っているのだ。けれど俺は、そのままソファーにもたれかかって天井と丸い蛍光灯をながめていた。
ぼーっとしていたとも言う。
今から少し前、俺はおばさんに連絡をとった。
電話で俺は、先輩から聞いた話のほとんどをおばさんに話し、そして自分の考えを付け加えた。その間おばさんは、一言も喋らなかった。話し終わっても、まだ沈黙を保っていた。
しかし、しばらく押し黙った末におばさんは言った。
『帰ってきたら、まず1時間お説教ね』―――と。
そう言って、震える声で笑っていた………。


「――――リョウ。わかってるか?」


小さく呟く。
…当然、リョウに聞こえるはずはない。
当たり前だ。リョウは超能力者じゃないんだから。
それでも俺は、呼びかけずにはいられなかった。
目を閉じて、強く思う。

リョウ。
わかっているよな。
もしお前が死んだりしても、墓参りになんて行ってやらないぞ。

お前には見えないところで、無事を願い続けてる人がいる。
お前が思っている以上に、帰りを待ちわびている人がいる。

お前を助けてやれないと、悔しさに泣いた人がいる。
お前のことを心配して、涙を流した人がいる。

お前が戻ってくる事を、信じようと言った人達がいる。
お前が戻ってくるまでは、諦めないと決めた奴がいる。

お前の為にできることは何もないけれど。
みんな、お前が帰って来られるよう、祈っている。

俺は先輩のように、お前を助けるために戦うことはできないけれど。

それがたとえ自己満足だとしても。
お前か、誰かか。お前が、誰かが。
アインクラッドの最上階で、ゲームクリアを迎えるその日まで。
俺もここで、諦めないために、不安と戦い続けるから。

だから。












――――絶対に帰ってこい。リョウ。














Sword Art Online 語られなかった物語 〜 もう一つの戦い 〜

(終)