語られなかった物語 〜もう一つの戦い〜 前編くりさぶれ さん作






*この話を書くにあたり左馬さんの作成されたSAO年表を参考にさせていただきました。
 この場をかりてお礼と、無断借用をお詫びします。






2014年11月4日、正午。
この日を、この時間を、俺達は一生忘れられないだろう。
ソードアート・オンライン。
共通の友人を何の前触れもなく戦場へ連れ去った、この呪われたタイトルと共に。

その日、俺こと真行寺弘は卒業製作展に出展する作品と向かい合っていた。
11月にしては暖かい日だったと覚えている。
油絵の具の匂いが部屋にこもらないよう、自宅の―なんてことはないアパートだが―窓を開けていたから。
製作のお供はマグカップに入ったインスタントコーヒーと、つけっぱなしのテレビ。
日本各地のグルメと一緒に芸能人の暴露話を盛り込んだ旅番組が流れていて、なんとか由美、という女優がゲスト出演していた気がする。どうせキャンパスとにらめっこしていたら内容なんてロクに覚えていられないのだが、そこは人間という種族のフカシギさで俺は何かしら雑音があった方が集中力が上がるのだ。
というわけで、ともかくその日、テレビはつけっぱなしだった。
なんとか由美の新人時代の苦労話を聞き流しながら、気に入らない個所を修正し、どう考えてもヤラセだな、という笑い声を聞きながら絵の具を混色して、すでに4分の3以上仕上っているキャンパスに、ひと塗り、またひと塗りと丁寧にのせていく。そしてこの時、どういう気まぐれかいつも左腕にはめている腕時計で、時間を確認したのだ。
11時58分。
そろそろ昼飯休憩でもするか、いやいやもう少し頑張ってみようか、などと考え始めた時、ふと思い出したのである。
別の大学に通っている友人が、話していたゲームの事を。
そいつとは高校時代からの付き合いで、俺はこうして4年間美大で学んでいるがあいつは普通科に進んでいた。口下手で態度もどことなくぶっきらぼうだが”いい奴”で、かなりのゲーマー。ことに格闘ゲームなどやらせようものなら…俺は結局、高校3年間であいつに勝てた事があっただろうか。ともかくそれぐらいゲーム好きのあいつが、1週間も前から一つのゲームの事ばかりを話していたのだ。
タイトルは確か、ソードアート・オンライン。
小難しい単語が羅列した説明をかいつまんで解釈すると、アーガスとかいう会社が作った巨大な城の最上階をめざすゲームで、3Dや2Dのキャラクターではなくナーブギアという機械を経由して脳になにかしら刺激を与えることによって自分自身が剣士になるような感覚をモノにし、オンラインという言葉の示すように大人数が一度にプレイできるすごいもの…らしかった。今日が発売初日、正午から運営開始となり、5万人がその瞬間に立ち会いゲームを始める事ができる。その5万人に俺も潜り込めたんだと、嬉しそうに話していたっけ。
また腕時計を確認する。12時6分。
あいつ、今ごろ運営開始セレモニーのギャラリーになって、早く遊ばせろよとかぼやいているんだろうな。そう考えて、俺は―その時何が起こっていたかも知らず、のんきにも―笑った。…そういえばあいつ、セレモニーはテレビ中継するとか言っていなかったか?一拍迷った末、俺はチャンネルを探すべくリモコンを手に取った。あいつが楽しみにしていたゲームは一体どんなものなのか、見てみるのも悪くない…。
しかし、その瞬間俺の目に飛びこんできたのはNBS速報というテロップと、独特の電子音だった。
珍しいな。何があったんだ?
俺ののんきな考えを悟ったかのように、なんとか由美の上を文字が走るように並んでいく。

――――――そして。
俺は、自分の目を疑った。




『本日運営開始された大手ソフト会社アーガス発表のゲーム Sword Art Online にて不祥事が発生。
 5万人のユーザーが現実世界へ自力復帰不可能に』




からん、と音を立ててパレットが、パレットナイフがフローリングの床を転がる。
立ちあがった拍子に椅子まで倒してしまったらしいが、気にならなかった。
気がついたら俺は15インチのテレビにつかみかかっていた。
目の前でもう一度、テロップが走る。

『本日運営開始された大手ソフト会社アーガス発表のゲーム Sword Art Online にて不祥事が発生。
 5万人のユーザーが現実世界へ自力復帰不可能に』

ソフト会社、アーガス。ソードアート…オンライン。
間違いない。あいつが…遼太郎が、ずっと楽しみにしていたゲームだ。
戻ったらメールで感想送ってやるからな、と言って笑っていた、あのゲームだ。
『NBS速報 終』というテロップがちかちかして、速報は終わった。
けれど、俺はそのまま固まっていた。
テレビの中ではなんとか由美が大笑いしている。
だけど話の内容は、俺の耳を素通りして頭には残らない。
目の前の映像だって、見てはいるけれどそれだけだ。
今読んだ文字だけが頭の中をぐるぐると巡っている。呼吸すら忘れていた。
口の中が、カラカラだ。
「………………嘘だろう……?」
思わず呟いた言葉は、感想というより、そう思いたかったことだった。
不祥事が発生?自力復帰が不可能?
何がどうなっているんだ。それだけじゃ、全然わからないじゃないか。
今日は運営開始のセレモニーがあって、その後普通にゲームができるはずじゃなかったのか…!
「――――リョウ………!!」
一体、そっちで何があったんだ―――!!





Sword Art Online 語られなかった物語 〜もう一つの戦い〜

(前編)




どれだけ、俺はそうしていたのだろう。
ふと我に返ったとき、テレビ脇のサイドボードに置いた携帯が着信を告げていることに気付いた。ちょっと前に流行ったインディーズバンドの、俺が一番好きな曲。それが早く出ろ、と言いたげに流れ続けている。
勘弁してほしかった。
このタイミングで、誰かと冷静に話せるわけがない。むしろそんな気力がない。
けれど、相手はなかなか諦めない。
仕方なしに俺はロクに画面も見ず通話ボタンを押した。
「…はい。真行寺です」
『ヒロ君…!!テレビ…テレビ見たッ………!!?』
「………美沙か?」
電話の向こうは、和久井美沙だった。
彼女もまたリョウと同じく、高校時代からの俺の友人だ。
普段は物怖じしない快活な性格の持ち主なのだが…今は声が震えている。
相手も携帯から連絡しているらしく、後ろでざわざわと人の声がしていた。
『どうしよう…!ヒロ君、どうしよう…!!リョウ君が…リョウ君が………!!』
「落ち着け美沙。リョウがトラブルに巻き込まれたのは知ってる。今速報で見た。
 いったい何があったんだ?お前、何か知ってるのか?」
電話口からしゃくりあげる声が数回聞こえる。
長い付き合いだが、美沙がここまで取り乱したのは初めてじゃないだろうか。
本当に、そっちで何があったんだよ、リョウ………!
『あたし…あたしね、か、会場で、セレモニーの、中継見てたの。リョ、リョウ君が…リョウ君があんなに………!楽しみにし、ていたゲーム、って…どんな、ゲームなんだろうって…!そし…そしたら、セレモニーに、男の人が出てきて…!!もう誰も、ログアウト、できないって…!』
「ログアウトできない!?」
それはつまり自分の意思でゲームから帰ってこられない、という意味じゃないのか。
どういうことだ。それが『自力復帰不可能』ってことなのか…!!
―――でも、こんなの…まだ序の口だった。
次の瞬間聞こえた言葉は、携帯を落とさなかったのが不思議なくらい、俺を愕然とさせた。
『それで、もしも………もしも…ゲームの中で死んじゃったら…!!本当に死んじゃうだって!!!その人が、言ったんだよ…!!!』
その場に立ち尽くした俺の耳に、冷静なアナウンサーの声が飛びこんできた。

『番組の途中ですが、臨時ニュースをお伝えします。
 本日正午、株式会社アーガスが発表したオンラインゲーム、ソードアート・オンラインの開催セレモニーにおいて、ログインしたユーザー5万人が精神世界アインクラッドから現実世界へ戻れなくなるという事件が発生しました。
 5万人のユーザーが現実世界へと復帰する手段は、今のところ見付かっておりません。
 繰り返します。本日正午、株式会社アーガスが発表したオンラインゲーム、
 ソードアート・オンラインの開催セレモニーにおいて、ログインしたユーザー5万人が精神世界アインクラッドから現実世界へ戻れなくなるという事件が発生しました。5万人のユーザーが現実世界へと復帰する手段は、今のところ見付かっておりません…』




その日は、日本中どころか世界中が大騒ぎだった。
5万人のプレイヤーの中に数人、外国国籍を所持している人がいたからだ。もっともそれを差し引いても、十分話題になる『大事件』だったのだろうけれど。結果、マスコミ曰く『狂気の天才 茅場晶彦』の名前とともに、アーガスの名はもっとも不名誉な形で世界に広まることとなる。
国営民放をとわず、どこもかしこもニュースはSAO、ソードアート・オンライン1色で号外まで出る始末。合間合間に行われる討議では、ナーブギアを商品化するのは危険だという意見があっただの茅場晶彦を野放しにしておいたアーガスの責任だの、事件があったから言える勝手な主張が繰り広げられている。
当の開発部長ご本人は消息不明。ご丁寧にもリョウを含む5万人のユーザーの命を盾に、まんまと指名手配を逃れたらしい。
けれど、俺達にとって…いや、俺達だけではなかったはずだ。5万人のユーザーの家族や親しくしていた人にとって、一番重要なのは会社の信頼や茅場晶彦の行方ではなく、リョウが…皆がいつ戻って来るのか、ということだった。
マスコミも、警察も、アーガスも。
正確な情報など期待できない。
マスコミが欲しいのは話題性。
ニュースで流れる情報は、マスコミや誰かの都合の良いように言葉を変え、事実が捻じ曲げられているとも限らない。
警察は上層部が対応を協議中でそれどころじゃない。
5万人の命がかかっているから指名手配ができないとは言え、これだけの事件を起こした茅場晶彦を放っておくわけにもいかないのだろう。
アーガスなど論外だ。
これ以上会社の面子をつぶさないためならどんな嘘だろうとつきそうだ。たとえ一時しのぎの、真面目に考えればすぐにわかるような嘘だったとしても。
けれどその点、俺と美沙はまだ幸運だった。全く誇張も飾りつけもない事実を教えてくれるであろう知り合いに、心当たりがあったから。
その名は遠藤勝乃。
リョウと、俺と、美沙を特別かわいがってくれた、高校時代の先輩だ。

遠藤勝乃という人を一言で表すならば、『姉御肌』という言葉以上に当てはまるものはない。豪放磊落で裏表がなく、嘘が付けない気配り上手。ついでに付け加えるならば平均以上の美人なのだが、それゆえか一度怒らせると相当な迫力がある。少なくとも俺は、怒った先輩を相手に回すぐらいなら肉食恐竜と散歩する。だがそれはあくまで怒っている時の話であって、いつもは申し分がないほどいい人、信頼できる先輩なのだ。
先輩は2年前に工業系の大学を卒業しアーガスに就職。
プログラマーとして、SAOの製作に携わっていた。

今から数時間前、泣きはらした目で俺の家に駆け込んできた美沙と一緒に先輩へ連絡した時、先輩は社内外の対応に奮闘していた。電話口から聞こえてきたのは途切れる事のないコール音と人のざわめき、怒鳴り声と紙が飛ぶ音、キーボードを叩く音、ドアが勢い良く開閉する音。戦場で、先輩は怒鳴りながら―大声を出さなければ聞こえないほどアーガスは忙殺状態だった―約束してくれた。
曰く、茅場開発部長の置き土産はとんでもないシロモノで、とても自分達の手には負えないから今日はもう解放してもらえるはずだ。ハイエナどもが外に群がっているからまいて帰るのは深夜になるけれど、絶対にお前の家に寄る。それまで待っていてくれないか。…と。
―――それから先輩を待つ時間ほど、長く感じたものはなかった。

9時になった。
トップニュースはやはりソードアート・オンライン。
どこから調達したのやら、7時の時には言及しなかった情報を5分以上喋ったあと、すでに何回見たかわからないVTRとアーガス前からの中継が流れる。
画面に現われたのはどこかのビル街の一角に立つアーガス正面口と、大量のマスコミ。いまだアーガスはノーコメントを貫き通している事、茅場晶彦は依然消息不明だという事を告げるリポーターの後ろではひっきりなしにフラッシュが光っている。下手な芸能人のスキャンダルより、よほど騒ぎ立てているんじゃないだろうか。それがありがたいかと聞かれれば答えはNOに決まっているけれど。
マスコミ対策なのかアーガスは全ての窓でカーテンを閉めきっていたが、その向こうは明るかった。あの窓のどこかで、先輩はまだ奮闘しているのだろうか…。
ぼんやりとそんな事を考えているうちに中継は終わり、また見なれたセットが画面上に出てきた。アナウンサーが緊迫した面持ちで手にした紙を見ている。

『ただいま入りました情報によりますと、』

―――新しい情報が入ったのか?!

『すでに脳死状態にあるユーザーが発生したとのことです。
 死亡推定時刻は午後3時前後と見られています。
 繰り返します。すでに脳死状態にあるユーザーが発生しました。
 死亡推定時刻は午後3時前後と見られています。
 また、医療関係者の間からは即急にユーザーの身体保護対策をとらなければ更なる被害者が出るのではないかと懸念する声があ』

ブツン、という音と一緒に画面上にいたアナウンサーが消える。
テレビが消えて、部屋に静寂が戻ってきた。リモコンをペン立てに放りこみながら、俺は自分が思っていた以上に苛立っていることに気付く。
何が、懸念する声だ。
俺達はそんな事が知りたいんじゃない。ただでさえこっちは正確な情報が少なくて不安なのに、それをあおってどうするんだ、馬鹿野郎。
大きく、息を吐く。
腕時計はようやく9時半を少しまわったところだ。
先輩は、最低でもあと2時間以上待たないと来られないだろう。あの戦場を収拾するにはアーガスの社員を総動員したとしても時間がかかるはずだ。
………俺は、美沙の方を振り向いた。
ソファーに座りこんだ美沙は、クッションに顔を押し付けている。
だから表情は見えない。
けれど、肩を震わせながら小さく嗚咽をこぼしているとなれば…。
どんな顔をしているのかは、簡単に想像がついた。
―――こういう時、何を言っていいのかわからない自分が情けない。しばらく考えた末にようやく俺が言ったのは、呆れるほど月並みな言葉だった。
「…美沙。何か食べよう。体が…もたないぞ」
「………」
ゆっくり首を振る美沙。
…それもそうかもしれない。言った俺でさえ、何も食べたくないのだ。立っていることにもいい加減疲れ、彼女の隣に俺も座った。腕時計を見れば、針の位置はさっきとほとんど変わっていない。製作の追い込みの時はなでるように早く進むくせに、なんで今日にかぎって秒針はこんなにノロノロしているのか。苛立ちと一緒に、焦りと不安も溜まっていく。
ふと俺は、自分が小学生だったころの事を思い出した。双子のようにそびえていた摩天楼に、相次いで旅客機が衝突した史上例を見ない大規模なテロ。
通称、911。
俺はテレビで事件を知ったが、初めてその映像をみた時は映画のワンシーンみたいだとしか思えなかった。スローモーションのように飛行機がゆっくりとビルに接近していく様子は、ビルさえなければまるで普通のフライトと一緒で、その影で数千単位の命が消えたなど到底信じられないほど静かに唐突に、事件は起こったのだ。
今の状況と、似ている。
まだ誰も死んだと決まっていないけれど、信じられない出来事が、ありえない出来事が何の前触れもなく起こったという点は全く一緒じゃないか。あの時も…巻き込まれた人の家族や知り合いは、こんな気分だったのだろうか。信じられないという思いと、どうしようもない不安を抱えて、消息を知るための確かな情報を待っていたのだろうか。

突然、インディーズバンドが出張ライブを始めた。

もとい、携帯が着信を告げる。
…心臓に悪い。今の今まで、とても静かだっただけに。
立ちあがると急ぎ足で廊下へ出て、ポケットから携帯を引っ張り出す。画面を見ると非通知だったが、市外局番らしき番号が先頭にあるところを見ると固定電話のようだ。
…………もしセールスか何かだったら、怒鳴りつけてやる。
俺は、通話ボタンを押した。
「…もしもし?」
『…………真行寺君…?壺井、裕子です…』
リョウのお母さんだった。美沙以上に憔悴している。
………無理もない。
リョウは大学に通うために1人暮しをしていたから、おばさんには予備知識が全くなかった。その分、巻き込まれたと知った時のショックは俺達の比ではなかったはずだ。今の今まで連絡がなかったのも、リョウと連絡がとれず、まさかという思いを抱えて心当たりを尋ねていたからだろう。予想通り、おばさんはリョウの事について何か知らないか、と尋ねてきた。
「…いいえ。でも、遠藤先輩に連絡を取りました。…はい。そうです。先輩は今アーガスで…はい。時間はかかるけれど、かならず来ると約束してくれました。…はい。はい、必ずご連絡します。…はい。失礼します………」
通話時間、3分19秒。
リョウの心配。
憔悴した美沙。
確かなものが掴めないことの苛立ち。
そこに、こんなに短時間でもうひとつ、先輩を待つ時間が辛くなる理由が追加された。

アトリエ兼リビングのダイニングキッチンへ戻ると、美沙が顔をあげていた。ここに来た時より、さらにひどい顔だ。ナチュラルメイクは中途半端に落ちているし、肩までのストレートの髪は乱れてクシャクシャ。まぶたにいたってはほとんど限界までふくらんでいるようだし、おまけにずっとクッションに顔をうずめていたせいで、頬に髪が数本貼りついている。今お化け屋敷に行かせたら、そのまま立っているだけでバイトができそうだ。
「………なぁに?あたし、そんなにひどい顔してる…?」
ぎくりとしたと言っても咎められはしまい。
何でわかったんだ。超能力者か、美沙は。
「だってヒロ君、考えていることが顔に出るんだもの」
「………頼むから、そうやってズバズバ人の考えを当てないでくれよ。心臓に悪い」
無理矢理そう言っておどけてみせると、ほんの少しだけ、美沙の口の端が緩んだ。笑おうとしたのかもしれない。けれどそれは口元だけで…目は、表情は泣いていた。本人もそのことを自覚しているのか、しきりに目の辺りをこすっている。
「電話…リョウ君の、お母さん…?」
「………うん。リョウの事、何か知らないかって…」
「…そっか………そうだよね。
 おばさんの方が、あたし達よりずっと辛いよね…」
何も言えない俺から窓の向こうへと視線を移し、呟くように美沙は言う。
「勝乃センパイ…。まだ、会社にいるのかな…………」
「…わからない。多分、そうだろうと思うけど………」
「………」
また沈黙が流れる。
あぁもう。もう少し何かいえないのか。
頼むから動け、俺の口。
「美沙。…何か、食べたいか?簡単な夜食なら作れるぞ」
…ってそれはさっき聞いただろうが、俺。
思わず額を押さえる。
何をやっているんだ………。
あまりの情けなさに頭痛までしてきた。
―――3人でいた時は、話題に詰まる事なんてなかったのに…。
「…ごめん。俺、何言ってんだろ…。さっき聞いたばっかりだよな、これ…」
「ううん。ありがとう、ヒロ君。
 でも…ごめんね………。食べたく、ないんだ。
 …ヒロ君こそ、お腹すいてない?」
………気を使ったつもりが、逆に気を使わせてしまった。
情けなさにいっそう拍車がかかる。
「偶然だな。…俺も、食欲ないんだよ」
どうにかそう告げたその時。

くぅぅぅ、と小動物の鳴き声のような音がした。
―――美沙のほうから。

俺だって十分驚いたがそれ以上に驚いたのは美沙本人らしい。しばらく信じられない、といいたげな表情で呆然としていたのだが、やがて泣き笑いの変な顔にかわる。
「……………あはっ…。
 駄目だね…。やっぱり、お腹すいてるみたい…」

こんな時なのにね、と続けた美沙に。
あの速報以来、初めて俺は笑った。

「…何言ってるんだ。少しは落ち着いた証拠だろ?ちょっと待ってろ。
 サンドイッチでも作るよ」
こくりと頷いた美沙を残し、俺はキッチンへ移動する。幸いというのか何というのか、製作に集中できるよう昨日食料品の買い足しをしたばかりなので材料には困らない。食パン1斤、ハムにキュウリにトマト、卵…はゆでて、スライスチーズにレタス。荒びき黒胡椒とマヨネーズとマスタードと…あれ?俺、ジャムなんて買っていたのか。
未開封のブルーベリージャムだった。
ちょうどいい。これも使おう。
あとは、食器棚から大きい皿を出して、鍋に水を張って卵をいれて……そういえばポットのお湯がもうほとんどない。ものはついでだ。注ぎ足しておくか…。
それからしばらく俺はキッチンでごそごそしていたが、数分後には卵を煮る隣でレタスの水気をとっていた。パンは既に切り終わり、皿の上で調理されるべく鎮座している。他の野菜はこれから薄くなる予定だ。レタスに区切りをつけるのと同時に卵が茹で上がったので、それを鍋からあけて水を張ったボールに移し、冷やす。蛇口をひねって水量を細く調節し、キュウリとトマトを薄切りにすべく包丁に手を伸ばしたその瞬間。

インターホンが鳴った。

どちらかといえば廊下へ続く扉は、美沙より俺に近い位置にあった。にもかかわらず、美沙に続いて部屋を出る俺。短い廊下を一気に走りぬけ、玄関を開けた美沙の向こうには。

「遅くなってすまなかったね。ずいぶん待っていたんじゃないかい?」

ここ最近厳しくなる一方の夜の冷え込みに息を白く染めた遠藤先輩が立っていた。待ち人、予定より早くここへ至る。




*後編に続きます