
| #18〜#21 |
| 18 湖水に垂れた糸の先に漂うウキはぴくりともしない。水面に乱舞する柔らかい光を眺めていると、徐々に眠気が襲ってくる。 俺は大きく欠伸をして、竿を引き上げた。糸の先端には銀色の針が空しく光るのみだ。付いていたはずの餌は影も形も無い。 22層に引っ越してきて十日余りが過ぎ去っていた。俺は日々の食料を手に入れるため、スキルスロットから大昔に修行しかけた両手剣スキルを削除して代わりに釣りスキルを設定し、太公望を気取っているのだがこれがさっぱり釣れやしない。スキル熟練度はそろそろ600を超え、大物とまでは行かなくても何か掛かってもいい頃だと思うのだが、村で買ってきた餌箱を無為に空にする毎日である。 「やってられるか……」 小声で毒づくと竿を傍らに投げ出し、俺はごろりと寝転んだ。湖面を渉ってくる風は冷たいが、アスナが裁縫スキルで作ってくれた分厚いオーバーのお陰で体は暖かい。向こうもスキル修行中ゆえにショップメイドのようには行かないが、実用性さえあれば問題はない。 アインクラッドはイトスギの月に入っていた。日本で言えば十一月。冬も間近だが、ここでの釣りに季節は関係なかったはずだ。運のパラメータを美人の奥さんで使い果たしたのだろうか。 その思考経路によって浮かんできたにやにや笑いを隠しもせず寝転がっていると、不意に頭の上のほうから声を掛けられた。 「釣れますか」 仰天して飛び起き、顔を向けると、そこには一人の男が立っていた。 重装備の厚着に耳覆い付きの帽子、俺と同じく釣り竿を携えている。だが驚くべきはその男の年齢だった。どう見ても五十歳は超えているだろう。鉄縁の眼鏡をかけたその顔には初老と言ってもよい程の年輪が刻まれている。重度のゲームマニア揃いのSAOでこれほど高齢のプレイヤーはごく珍しい。と言うより見たことが無い。もしや――? 「NPCじゃありませんよ」 男は俺の思考を読んだように苦笑すると、ゆっくりと土手を降りてきた。 「す、すみません。まさかと思ったものですから…」 「いやいや、無理はない。多分私はここでは突出して最高齢でしょうからな」 肉付きのいい体を揺らして、わ、は、は、と笑う。 ここ失礼します、と言って俺の傍らに腰を下ろした男は、腰のポーチから餌箱を取り出すと不器用な手つきでポップアップメニューを出し、竿をターゲットして餌を付けた。 「私はニシダといいます。ここでは釣り師。日本では東都高速線という会社の保安部長をしとりました。名刺が無くてすみませんな」 またわははと笑う。 「あ……」 なるほど……。俺はこの男がここにいる理由を何となく察していた。東都高速線はアーガスと提携していた光ケーブルネットワーク運営企業だ。SAOのサーバー群に繋がる経路も手がけていたはずである。 「俺はキリトといいます。最近上の層から越してきました。……ニシダさんは、やはり……SAOのシステムセキュリティの……?」 「一応責任者ということになっとりました」 頷いたニシダを俺は複雑な心境で見やった。ならばこの男は業務の上で事件に巻き込まれたわけだ。 「いやあ、何もログインまではせんでいいと上には言われたんですがな、自分の仕事はこの目で見ないと収まらん性分でして、年寄りの冷や水がとんだことになりましたわ」 笑いながら、すい、と竿を振る動作は見事なものだった。年季が入っている。話し好きな人物のようで、俺の言葉を待たず喋りつづける。 「私の他にも何だかんだでここに来てしまったいい歳の親父が百人ほどはいるようですな。大抵は最初の街でおとなしくしとるようですが、私はコレが三度の飯より好きでしてね」 竿をくいっとしゃくってみせる。 「いい川やら湖を探してとうとうこんな所まで登ってきてしまいましたわ」 「な、なるほど…。この層にはモンスターも出ませんしね」 ニシダは、俺の言葉にはニヤリと笑っただけで答えず、 「どうです、上のほうにはいいポイントがありますかな?」 と聞いてきた。 「うーん……。61層は全面湖、というより海で、相当な大物が釣れるようですよ」 「ほうほう! それは一度行ってみませんとな」 その時、男の垂らした糸の先で、ウキが勢いよく沈み込んだ。間髪入れずニシダの腕が動き、ビシッと竿を合わせる。本来の腕もさることながら釣りスキルの数値もかなりのものだろう。 「うおっ、で、でかい!」 慌てて身を乗り出す俺の横で、ニシダは悠然と竿を操り、水面から青く輝く大きな魚体を一気に抜き出した。魚はしばし男の手許で跳ねたあと、自動でアイテムウインドウに格納され、消滅する。 「お見事……!」 ニシダは照れたように笑うと、 「いやぁ、ここでの釣りはスキルの数値次第ですから」 と頭を掻いた。 「ただ、釣れるのはいいんだが料理の方がどうもねえ……。煮付けや刺身で食べたいもんですが醤油無しじゃどうにもならない」 「あ……っと……」 俺は一瞬迷った。他人から隠れるために移ってきた場所だが……しかしこの男ならゴシップには興味があるまいと判断する。 「……醤油にごく似ている物に心当たりがありますが……」 「なんですと!」 ニシダは眼鏡の奥で目を輝かせ、身を乗り出してきた。 ニシダを伴って帰宅した俺を出迎えたアスナは、少し驚いたように目を丸くしたがすぐに笑顔を浮かべた。 「おかえりなさい。お客様?」 「ああ。こちら、釣り師のニシダさん。で――」 ニシダに向き直った俺は、アスナをどう紹介したものか迷って口篭もった。するとアスナはにこりと老齢の釣り師に微笑みかけ、 「キリトの妻のアスナです。ようこそいらっしゃいませ」 元気よく頭を下げた。 ニシダはぽかんと口をあけ、アスナに見入っていた。地味な色のロングスカートに麻のシャツ、エプロンとスカーフ姿のアスナは、KoB時代の凛々しい剣士姿とは違えどその美しさにかわるところはない。 何度かまばたきした後、ようやく我に返った様子のニシダは、 「い、いや、これは失礼、すっかり見とれてしまった。ニシダと申します、厚かましくお招きにあずかりまして……」 頭を掻きながら、わははと笑った。 ニシダから受け取った大きな魚を、アスナは料理スキルを如何なく発揮して刺身と煮物に調理し、食卓に並べた。例の自作醤油の香ばしい匂いが部屋中に広がり、ニシダは感激した面持ちで鼻を盛んにひくつかせた。 魚は淡水魚というよりは、旬の鰤のような脂の乗った味だった。ニシダに言わせるとスキル値950は無いと釣れない種類だそうで、三人とも会話もそこそこにしばらく夢中で箸を動かしつづけた。 たちまち食器は空になり、熱いお茶のカップを手にしたニシダは陶然とした顔で長いため息をついた。 「……いや、堪能しました。ご馳走様です。しかし、まさかこの世界に醤油があったとは……」 「あ、自家製なんですよ。よかったらお持ち下さい」 アスナは台所から小さな瓶を持ってきてニシダに手渡した。その際素材の解説をしなかったのは賢明だろう。恐縮するニシダに向かって、こちらこそ美味しいお魚を分けていただきましたから、と笑う。続けて、 「キリト君はろくに釣ってきたためしがないんですよ」 唐突に話の矛先を向けられて、俺は憮然として茶を啜った。 「このへんの湖は難易度が高すぎるんだよ」 「いや、そうでもありませんよ。難度が高いのはキリトさんが釣っておられたあの大きい湖だけです」 「な……」 ニシダの言葉に俺は絶句した。アスナがお腹を押さえてくっくっと笑っている。 「なんでそんな設定になってるんだ……」 「実は、あの湖にはですね……」 ニシダは声をひそめるように言った。俺とアスナが身を乗り出す。 「どうやら、主がおるんですわ」 「ヌシ?」 異口同音に聞き返す俺とアスナに向かってニヤリと笑ってみせると、ニシダは眼鏡を押し上げながら続けた。 「村の道具屋に、一つだけヤケに値の張る釣り餌がありましてな。物は試しと使ってみたことがあるんです」 思わず固唾を飲む。 「ところが、これがさっぱり釣れない。散々あちこちで試したあと、ようやくあそこ、唯一難度の高い湖で使うんだろう思い当たりまして」 「つ、釣れたんですか……?」 「ヒットはしました」 深く頷く。しかしすぐ残念そうな顔になり、 「ただ、私の力では取り込めなかった。竿ごと取られてしまいましたわ。最後にちらりと影だけ見たんですが、大きいなんてもんじゃありませんでしたよ。ありゃ怪物、そこらにいるのとは違う意味でモンスターですな」 両腕をいっぱいに広げてみせる。あの湖で、俺がここにはモンスターは居ないと言った時にニシダが見せた意味深な笑顔はそういうことだったのか。 「わあ、見てみたいなぁ!」 目を輝かせながらアスナが言う。ニシダは、そこで物は相談なんですが、と俺に視線を向けてきた。 「キリトさんは筋力パラメータのほうに自信は…?」 「う、まあ、そこそこには……」 「なら一緒にやりませんか! 合わせるところまでは私がやります。そこから先をお願いしたい」 「ははぁ、釣り竿の『スイッチ』ですか。……できるのかなぁそんな事……」 首をひねる俺に向かって、 「やろうよキリト君! おもしろそう!」 アスナが、わくわく、と顔に書いてあるような表情で言った。相変わらず行動力のある奴だ。だが俺もかなり好奇心を刺激されているのは事実だった。 「……やりますか」 俺が言うと、ニシダは満面に笑みを浮べて、そうこなくっちゃ、わ、は、は、と笑った。 その夜。 寒い寒いと俺のベッドに潜り込んできたアスナは、ぴたりとお互いの体を密着させると満足そうに喉を鳴らした。眠そうに目をぱちぱちさせながら、何かを思い出したような笑みを浮べている。 「……いろんな人がいるんだねえ、ここ……」 「愉快な親父だったなぁ」 「うん」 しばらくクスクス言っていたが、不意に笑いを引っ込めて、 「今までずーっと上で戦ってばっかいたから、普通に暮らしてる人もいるんだってこと忘れてたよ……」と呟いた。 「わたしたちが特別だなんて言うわけじゃないけど、最前線で戦えるくらいのレベルだってことは、あの人たちに対して責任がある、ってことでもあるんだよね」 「……俺はそんなふうに考えたこと無かったな……。強くなるのは自分が生き残るためってのが第一だった」 「今はキリト君に期待してる人だっていっぱいいると思うよ。わたしも含めてね」 「……そういう言われ方すると逃げたくなる性分なんだ」 「もう」 不満そうに口を尖らせるアスナの唇を、俺は自分の唇で塞いだ。右手を背に這わせ、そのまま下のほうに降ろしてゆく。 「あ……誤魔化すなんて、ず、ずるい……」 構わず寝巻きの下に手を潜らせようとしたが、その手をぎゅっと抓られてしまった。 「今日はもうだめ!」 「……な、なんで……」 「……気持ちよすぎて、こわいんだもん……」 顔を赤くして毛布に潜ってしまう。 「うむ、あのシステムはどうやらリアリティは追求しないで、純粋な快感だけを無制限に脳神経シミュレートしてるみたいだからな。薬物使用みたいな物で、ある意味危険かもな」 と鹿爪らしい声で言ってやると、それにつられたように顔を出して、 「そうなのよね……。最初にこっちで慣れちゃうと、帰ってから、本物に幻滅したりすると嫌だなって……――って、何言わせるのよ!!」 耳まで真っ赤にしてぽかぽか殴りかかってくるアスナの攻撃を避けながら、 「わははは、いやらしい子だなぁアスナは」 と笑っていたら本当に怒らせてしまったらしく、俺はベッドから容赦なく突き落とされた。 「もう知らない! そっちのベッドで寝てください!」 毛布を被ってむこうを向いてしまったアスナに謝りながら、俺は内心でもう少しだけこの生活が続くように願っていた。ニシダやその他のプレイヤーの為にもいつかは前線に戻らなくてはならない。だが、せめて今だけは――。 エギルやクラインから届くメッセージで、75層の攻略が難航していることは知らされていた。しかし、俺にとってはここでのアスナとの暮らしが今いちばん大切なのだと、心からそう思えた。 19 ニシダから主釣り決行の知らせが届いたのは三日後の朝のことだった。どうやら太公望仲間に声を掛けて回っていたらしく、ギャラリーが三十人から来るという。 「参ったなぁ。……どうする? アスナ……」 「う〜ん……」 正直、その知らせは有難くなかった。情報屋やらアスナの追っかけから身を隠す為に選んだ場所なので、衆目の前には出るのは抵抗がある。 「これでどうかなー」 アスナは栗色の長い髪をアップにまとめると、大きなスカーフを目深に巻いて顔を隠した。ウインドウを操作して、だぶだぶした地味なオーバーコートを着込む。 「お、おお。いいぞ、生活に疲れた農家の主婦っぽい」 「……それ、褒めてるの?」 「勿論。俺はまあ武装してなければ大丈夫だろう」 昼前に、弁当のバスケットを下げたアスナと連れ立って家を出た。向こうでオブジェクト化すればいいだろうと思ったが、変装の一環だと言う。 今日はこの季節にしては暖かい。巨大な針葉樹が立ち並ぶ森の中をしばらく歩くと、幹の間からきらめく水面が見えてきた。湖畔にはすでに多くの人影が見える。やや緊張しながら近づいて行くと、見覚えのあるずんぐりした男が聞き覚えのある笑い声と共に手を上げた。 「わ、は、は、晴れてよかったですなぁ!」 「こんにちはニシダさん」 俺とアスナも頭を下げる。年齢にバラつきのある集団はニシダの主催する釣りギルドのメンバーだと言う事で、内心緊張しながら全員に挨拶したがアスナに気が付いた者はいないようだった。 それにしても予想以上にアクティブな親父である。会社ではいい上司だったのだろう。俺たちが到着する前から景気付けに釣りコンペをやっていたそうで、すでに場は相当盛り上がっている。 「え〜、それではいよいよ本日のメイン・イベントを決行します!」 長大な竿を片手に進み出たニシダが大声で宣言すると、ギャラリーは大いに沸いた。俺は何気なく彼の持つ竿と、その先の太い糸を視線で追い、先端にぶら下がっている物に気付いてぎょっとした。 トカゲだ。だが大きさが尋常ではない。大人の二の腕くらいのサイズがある。赤と黒の毒々しい模様が浮き出た表面は、新鮮さを物語るようにぬめぬめと光っている。 「ひえっ……」 やや遅れてその物体に気付いたアスナが、顔を強張らせて二、三歩後ずさった。これが餌だとすると、狙う獲物というのは一体…。 だが俺が口を差し挟む間もなく、ニシダは湖に向き直ると大上段に竿を構えた。気合一発、見事なフォームで竿を振ると、ぶん、と空気を鳴らしながら巨大なトカゲが宙に弧を描いて飛んでゆき、やや離れた水面に盛大な水飛沫を上げて着水した。 SAOにおける釣りには、待ち時間というものが殆ど無い。仕掛けを水中に放り込めば、数十秒で獲物が釣れるか、餌が消滅して失敗するかどちらかの結果が出る。俺たちは固唾を飲んで水中に没した糸に注目した。 果たして、やがて釣り竿の先が二、三度ぴくぴくと震えた。だが竿を持つニシダは微動だにしない。 「き、来ましたよニシダさん!!」 「なんの、まだまだ!!」 眼鏡の奥の、普段は好々爺然とした目を爛々と輝かせ、片頬に笑みを浮べたニシダは細かく振動する竿の先端をじっと見据えている。 と、一際大きく竿の穂先が引き込まれた。 「いまだッ」 ニシダが短躯を大きく反らせ、全身を使って竿をあおった。傍目にも分るほど糸が張り詰め、びぃん、という効果音が空気を揺らした。 「掛かりました!! あとはお任せしますよ!!」 ニシダから手渡された竿を、俺は恐る恐る引いてみた。びくともしない。まるで地面を引っ掛けたような感触だ。これは本当にヒットしているのだろうかと不安になり、ニシダにちらりと視線を向けた瞬間―― 突然猛烈な力で糸が水中に引き込まれた。 「うわっ」 慌てて両足を踏ん張り、竿を立て直す。使用筋力のゲインが日常モードを軽く超えている。 「こ、これ、力一杯引いても大丈夫ですか?」 竿や糸の耐久度が心配になり、俺はニシダに声をかけた。 「最高級品です! 思い切ってやってください!」 顔を真っ赤にして興奮しているニシダに頷き返すと、俺は竿を構え直し、全力を開放した。竿が中程から逆Uの字に大きくしなる。 レベルアップ時に、筋力と敏捷力のどちらを上昇させるかは各プレイヤーが任意に選択することができる。エギルのような斧使いなら筋力を優先させるし、アスナのような細剣使いは敏捷力を上げていくのがセオリーだ。俺はオーソドックスな剣士タイプなので双方のパラメータを上げていたが、好みの問題でどちらかと言えば敏捷力に傾いている。 だが、レベルの絶対値が無駄に高いせいか、どうやらこの綱引きは俺に分があるようだった。俺は踏ん張った両足をじりじりと後退させ、遅々としながらも確実な速度で謎の獲物を水面に近づけていった。 「あっ! 見えたよ!!」 アスナが身を乗り出し、水中を指差した。俺は岸から離れ、体を後方に反らせている為確認することができない。見物人たちは大きくどよめくと、我先にと水際に駆け寄り、岸から急角度で深くなっている湖水を覗き込んだ。俺は好奇心を抑え切れず、全筋力を振り絞って一際強く竿をしゃくり上げた。 「……?」 突然、俺の眼前で湖面に身を乗り出していたギャラリー達の体がビクリと震えた。皆揃って二、三歩後退する。 「どうしたん……」 俺の言葉が終わる前に、連中は一斉に振り向くと猛烈な勢いで走り始めた。俺の左をアスナ、右をニシダが顔面蒼白で駆け抜けていく。あっけに取られた俺が振り向こうとしたその時――突然両手から重さが消えた。 しまった、糸が切れたか。咄嗟にそう思って水際に駆け寄ろうと片足を踏み出す。その瞬間、俺の眼前で、銀色に輝く湖水が大きく、丸く盛り上がった。 「な―――」 目と口を大きく開けて立ち尽くす俺の耳に、遠くからアスナの声が届いてきた。 「キリトくーん、あぶないよ――」 振り向くと、アスナやニシダを含む全員はすでに岸辺の土手を駆け上がり、かなりの距離まで離れている。ようやく状況を飲み込みつつある俺の背後で、盛大な水音が響いた。とてつもなく嫌な予感をひしひしと感じながら、俺はもう一度振り向いた。 魚が立っていた。 もうすこし詳細に説明すれば、魚類から爬虫類への進化の途上にある生物、シーラカンスのもう少し爬虫類寄りといった様子の奴が、全身から滝のように水滴をしたたらせ、六本のがっしりとした脚で岸辺の草を踏みしめて俺を見下ろしていた。見下ろして、という表現になるのは、そいつの全高がどう少なく見積もっても二メートルはあるからだ。牛さえも丸のみにしそうな口は俺の頭よりやや高い位置にあり、端からは見覚えのあるトカゲの足がはみ出している。 巨大古代魚の、頭の両脇に離れてついているバスケットボール大の目と、俺の目がぴたりと合った。自動で俺の視界に黄色いカーソルが表示された。 ニシダは、この湖のヌシは怪物、ある意味モンスターだと語った。 ある意味どころではない。こいつはモンスターそのものだ。 俺はひきつった笑顔を浮かべ、数歩後退した。左手の竿を放り出し、そのままくるりと後ろを向き、脱兎の如く駆け出す。背後の巨大魚は轟くような咆哮を上げると、当然のように地響きを立てながら俺を追ってきた。 敏捷度全開で宙を飛ぶようにダッシュした俺は、数秒でアスナの傍まで達すると猛然と抗議した。 「ず、ずずずるいぞ!! 自分だけ逃げるなよ!!」 「わぁ、そんな事言ってる場合じゃないよキリト君!」 振り向くと、動作は鈍いものの確実な速度で巨大魚がこちらに駆け寄りつつあった。 「おお、陸を走っている……肺魚なのかなぁ……」 「キリトさん、呑気なこと言っとる場合じゃないですよ!! 早く逃げんと!!」 今度はニシダが腰を抜かさんばかりに慌てながら叫ぶ。数十人のギャラリー達も余りのことに硬直してしまったらしく、なかには座り込んだまま呆然とするだけの者も少なくない。 「キリト君、武器持ってる?」 俺の耳に顔を近づけながら、アスナが小声で聞いてきた。確かに、この状態の集団を整然と逃がすのはかなり難しそうだが――。 「スマン、持ってない……」 「しょうがないなぁもう」 アスナは頭を左右に振りながら、いよいよ間近に迫った巨大脚付き魚に向き直った。慣れた手つきで素早くウインドウを操作する。 ニシダや他の見物人達が呆然と見守る中、こちらに背を向けてすっくと立ったアスナは両手でスカーフと分厚いオーバーを同時に剥ぎ取った。陽光を反射してきらきら輝く栗色の髪が、風の中で華麗に舞った。 オーバーの下は草色のロングスカートと生成り麻のシャツの地味な格好だが、その左腰には銀鏡仕上げの細剣の鞘がまばゆく光っている。右手で音高く剣を抜き放ち、地響きを上げて殺到する巨大魚を悠然と待ち構える。 俺の横に立っていたニシダは、ようやく思考が回復した様子で俺の腕を掴むと大声で叫んだ。 「キリトさん! 奥さんが、奥さんが危ない!!」 「いや、任せておけば大丈夫です」 「何を言うとるんですか君ィ!! こ、こうなったら私が…」 悲壮な表情で釣り竿を構え、アスナの方に駆け出そうとする老釣り師を俺は慌てて制した。 巨大魚は突進の勢いを落とさぬまま、無数の牙が並ぶ口を大きく開けるとアスナを一飲みにする勢いで身を躍らせた。その口に向かって、体を半身に引いたアスナの右手が白銀の光芒を引いて突き込まれた。 爆発じみた衝撃音と共に、巨大魚の口中でまばゆいエフェクトフラッシュが炸裂した。魚は宙高く吹き飛ばされたが、アスナの両足の位置はわずかも変わっていない。 モンスターの図体にはかなり心胆寒からしめる物があったが、レベル的には大したことは無かろうと俺は予想していた。こんな低層で、しかも釣りスキル関連のイベントで出現するからには理不尽に強敵である筈がないのだ。SAOというのは、そういうお約束は外さないゲームなのである。 地響きを立てて落下した巨大魚のHPバーは、アスナの強攻撃一発で大きく減少していた。そこへ、〈閃光〉の異名に恥じない連続攻撃が容赦なく加えられた。 華麗なダンスにも似たステップを踏みながら恐るべき死殺技の数々を繰り出すアスナの姿を、ニシダや他の参加者達は呆けたような顔で見つめていた。彼らはアスナの美しさと強さのどちらに見とれているのだろう。多分両方だ。 周囲を圧する存在感を振りまきながら剣を操り続けたアスナは、敵のHPバーがレッドゾーンに突入したと見るやフワリと跳んで距離を取り、着地と同時に突進攻撃を敢行した。彗星のように全身から光の尾を引きながら、正面から巨大魚に突っ込んでいく。最上位細剣技の一つ、〈フラッシング・ペネトレイター〉だ。 ソニックブームに似た衝撃音と共にその彗星はモンスターの口から尾までを貫通し、長い滑走を経てアスナが停止した直後、敵の巨体が膨大な光の欠片となって四散した。一瞬遅れて巨大な破砕音が轟き、湖の水面に大きな波紋を作り出した。 チン、と音を立ててアスナが細剣を鞘に収め、すたすたとこちらに歩み寄ってきても、ニシダ達は口を開けたまま身動ぎひとつしなかった。 「よ、お疲れ」 「わたしにだけやらせるなんてずるいよー。今度何かおごってもらうからね」 「もう財布も共通データじゃないか」 「う、そうか……」 俺とアスナが緊張感のないやり取りをしていると、ようやくニシダが目をパチパチさせながら口を開いた。 「……いや、これは驚いた……。奥さん、ず、ずいぶんお強いんですな。失礼ですがレベルは如何程……?」 俺とアスナは顔を見合わせた。この話題はあまり引っ張ると危険だ。 「そ、そんなことよりホラ、今のお魚さんからアイテム出ましたよ」 アスナがウインドウを操作すると、その手の中に白銀に輝く一本の釣り竿が出現した。イベントモンスターから出現したからには、非売品のレアアイテムだろう。 「お、おお、これは!?」 ニシダが目を輝かせ、それを手に取る。周囲の参加者も一斉にどよめく。どうやらうまく誤魔化せたかな…と思ったとき。 「あ……あなた、血盟騎士団のアスナさん……?」 一人の若いプレイヤーが二、三歩進み出てきて、アスナをまじまじと見詰めた。その顔がパッと輝く。 「そうだよ、やっぱりそうだ、俺写真持ってるもん!!」 「う……」 アスナはぎこちない笑いを浮べながら、数歩後ずさった。先程に倍するどよめきが周囲から沸き起こった。 「か、感激だなぁ! アスナさんの戦闘をこんな間近で見られるなんて……。そうだ、サ、サインお願いしていいで……」 若い男はそこでピタリと口を閉ざすと、俺とアスナの間で視線を数回往復させた。呆然とした表情で呟く。 「け……結婚、したんすか……」 今度は俺が強張った笑いを浮べる番だった。二人並んで不自然に笑う俺たちの周りで、悲嘆に満ちた叫びが一斉に上がった。ニシダだけは何のことやらわからないといった様子で目をぱちくりさせていたが。 俺とアスナの蜜月はこのようにして僅か二週間で終わりを迎えることとなった。だが、結局のところ、最後に愉快なイベントに参加できたのは幸運だったのかも知れなかった。 その日の夜、俺たちの元に、75層のボスモンスター攻略戦への参加を要請するヒースクリフからのメッセージが届いたのである。 翌朝。 ベッドの端に腰掛けてがっくりとうなだれていると、支度を済ませたアスナが鋲付きブーツを音高く鳴らしながら目の前までやってきて言った。 「ほら、いつまでもくよくよしてない!」 「だってまだ二週間なんだぜ」 子供のように口答えをしながら顔を上げる。しかし実際のところ、久しぶりに白と赤の騎士装を身に付けたアスナは非常に魅力的に見えたことは否定できない。 ギルドを仮にせよ脱退するに至った経緯を考えれば、今回の要請を断る事もできただろう。だが、メッセージの末尾にあった「すでに被害が出ている」という一文が俺たちに重くのしかかっていた。 「やっぱり、話だけでも聞いておこうよ。ほら、もう時間だよ!」 背中を叩かれてしぶしぶ腰を上げ、装備画面を操作して例の派手なレザーコートと最小限の防具類、最後に二本の愛剣を背中に交差して吊る。その重みは、長らくアイテム欄に放置しっぱなしだった事に対して無言の抗議をしているかのようだ。俺は剣たちをなだめるように少しだけ抜き出し、同時に勢い良く鞘に収めた。高く澄んだ金属音が部屋中に響いた。 「うん、やっぱりキリト君はその格好のほうが似合うよ」 アスナがにこにこしながら右腕に飛びついてくる。俺は首をぐるりと回してしばしの別れとなる新居を見渡した。 「……さっさと片付けて戻ってこよう」 「そうだね!」 頷きあうと、俺達はドアを開けた。冬の気配が色濃くなった冷たい朝の空気の中へと足を踏み出す。 22層の転移門広場では、釣り竿を抱えたお馴染みの姿でニシダが俺たちを待っていた。彼だけには出発の時刻を伝えておいたのだ。 ちょっとお話よろしいですか、という彼の言葉に頷いて、俺たちは三人並んで広場のベンチに腰掛けた。上層の底部を見上げながら、ニシダはゆっくりと話し始めた。 「……正直、今までは、上の階層でクリア目指して戦っておられるプレイヤーの皆さんもいるという事がどこか別世界の話のように思えておりました。……内心ではもうここからの脱出を諦めていたのかもしれませんなぁ」 俺とアスナは無言で彼の言葉を聞いていた。 「ご存知でしょうが電気屋の世界も日進月歩でしてね、私も若い頃から相当いじってきたクチですから今まで何とか技術の進歩に食らいついて来ましたが、二年も現場から離れちゃもう無理ですわ。どうせ帰っても会社に戻れるかわからない、厄介払いされて惨めな思いをするくらいなら、ここでのんびり竿を振ってたほうがマシだ――と……」 言葉を切り、深い年輪の刻まれた顔に小さい笑みを浮べる。俺は掛ける言葉が見つからなかった。SAOの囚人となったことによってこの男が失った物は、俺などに想像できる範疇のものではないだろう。 「わたしも――」 アスナがぽつりと言った。 「わたしも、半年くらい前までは同じ事を考えて毎晩独りで泣いていました。この世界で一日過ぎる度に、家族のこととか、友達とか、進学とか、わたしの現実がどんどん壊れていっちゃう気がして、気が狂いそうだった。寝てる時も元の世界の夢ばっかり見て……。少しでも強くなって早くゲームクリアするしかない、って武器のスキル上げばっかりしてたんです」 俺は驚いて傍らのアスナの顔を見詰めた。俺と出会ったころはそんな様子はまるで見えなかった。他人の事をろくに見ていないのは今に始まったことではないが……。 アスナは俺に視線を送るとかすかに微笑んで、言葉を続けた。 「でも、半年くらい前のある日、最前線に転移していざ迷宮に出発って思ったら、広場の芝生で昼寝してる人がいるんです。レベルも相当高そうだったし、わたし頭に来ちゃって、その人に『こんなとこで時間を無駄にする暇があったらすこしでも迷宮を攻略してください』って……」 片手を口に当ててクスクスと笑う。 「そしたらその人、『今日はアインクラッドで最高の季節の、さらに最高の気象設定だから、こんな日に迷宮に潜っちゃもったいない』って言って、横の芝生を指して『お前も寝ていけ』なんて。失礼しちゃいますよね」 笑いを収め、視線を遠くへと向けてアスナは続けた。 「でも、わたしそれを聞いてハッとしたんです。この人はこの世界でちゃんと生きてるんだ、って思って。現実世界で一日無くすんじゃなくて、この世界で一日積み重ねてる、こんな人もいたのか――って……。ギルドの人を先に行かせて、わたし、その人の隣で横になってみました。そしたらほんとに風が気持ちよくて……ぽかぽかあったかくて、そのまま寝ちゃったんです。怖い夢も見ないで、多分この世界に来て初めて本当にぐっすり寝ました。起きたらもう夕方で、その人が横で呆れた顔してました。……それがこの人です」 言葉を切ると、アスナは俺の手をぎゅっと握った。俺は内心で激しく狼狽していた。確かにその日のことはなんとなく覚えているが……。 「……すまんアスナ、俺そんな深い意味で言ったんじゃなくて、ただ昼寝したかっただけだと思う……」 「わかってるわよ。言わなくていいのそんな事!」 アスナは唇を尖らせる仕草をすると、にこにこしながら話を聞いているニシダに向き直った。 「……わたし、その日から、毎晩彼のことを思い出しながらベッドに入りました。そしたら嫌な夢も見なくなった。がんばって彼の名前調べて、時間作っては会いに行って……。だんだん、明日がくるのが楽しみになって……恋してるんだって思うとすっごく嬉しくて、この気持ちだけは大切にしようって。初めて、ここに来てよかった、って思いました……」 アスナはうつむくと白手袋をはめた手で両目をごしごし擦り、大きく息を吸って続けた。 「キリト君はわたしにとって、ここで過ごした二年間の意味であり、証であり、希望そのものです。わたしはこの人に出会う為に、あの日ナーヴギアを被ってここに来たんです。……ニシダさん、生意気な事かもしれませんけど、ニシダさんがこの世界で手に入れたものだってきっとあるはずです。確かにここは仮想の世界で、目に見えるものはみんなデータの偽物かもしれない。でも、わたしたちは、わたし達の心だけは本物です。なら、わたし達が経験し、得たものだってみんな本物なんです」 ニシダは盛んに目をしばたかせながら何度も頷いていた。眼鏡の奥で光るものがあった。俺も目頭が熱くなるのを必死にこらえた。俺だ、と思った。救われたのは俺だ。現実世界でも、ここに囚われてからも生きる意味を見つけられなかった俺こそが救われたのだ。 「……そうですなぁ、本当にそうだ……」 ニシダはふたたび空を見上げながら言った。 「今のアスナさんのお話を聞けたことだって貴重な経験です。五メートルの超大物を釣ったことも、ですな。……人生、捨てたもんじゃない。捨てたもんじゃないです」 大きくひとつ頷くと、ニシダは立ち上がった。 「や、すっかり時間を取らせてしまいましたな。……私は確信しましたよ。あなた達のような人が上で戦っている限り、そう遠くないうちにもとの世界に戻れるだろうとね。私に出来ることは何もありませんが、――がんばってください。がんばってください」 ニシダは俺たちの手を握ると、何度も上下に振った。 「また、戻ってきますよ。その時は付き合ってください」 俺が右手の人差し指を動かすと、ニシダは顔をくしゃくしゃにして大きく頷いた。 俺たちは固く握手を交わし、転移ゲートへと足を向けた。蜃気楼のように揺れる空間に踏み込み、アスナと顔を見合わせると、二人同時に口を開いた。 「転移――グランザム!」 視界に広がる青い光が、いつまでも手を振るニシダの姿を徐々にかき消していった。 20 「偵察隊が、全滅――!?」 二週間ぶりにグランザムの血盟騎士団本部に戻った俺たちを待っていたのは衝撃的な知らせだった。 ギルド本部となっている鋼鉄塔の上部、かつてヒースクリフとの会談に使われた硝子張りの会議室である。半円形の大きな机の中央にはヒースクリフの賢者然としたローブ姿があり、左右にはギルドの幹部連が着席しているが、前回とは違いそこにゴドフリーの姿はない。 ヒースクリフは顔の前で骨ばった両手を組み合わせ、眉間に深い谷を刻んでゆっくり頷いた。 「昨日のことだ。75層迷宮区のマッピング自体は、時間は掛かったがなんとか犠牲者を出さずに終了した。だがボス戦はかなりの苦戦が予想された……」 それは俺も考えないではなかった。なぜなら、今まで攻略してきた無数のフロアのうち25層と50層のボスモンスターだけは抜きん出た巨体と戦闘力を誇り、どちらの攻略においても多大な犠牲が出たからである。25層では軍の精鋭がほぼ全滅して現在の弱体化を招く原因となったし、50層では勝手に緊急脱出する者が続出して戦線が一度崩壊、援護の部隊がもう少し遅れたらこちらも全滅の憂き目は免れなかったはずだ。その戦線を独力で支えたのが今目の前にいる男なのだが。 クォーター・ポイントごとに強力なボスが用意されているなら、75層も同様である可能性は高かった。 「……そこで、我々は五ギルド合同のパーティー二十人を偵察隊として送り込んだ」 ヒースクリフは抑揚の少ない声で続けた。半眼に閉じられた真鍮色の瞳からは表情を読み取ることはできない。 「偵察は慎重を期して行われた。十人が後衛としてボス部屋入り口で待機し……最初の十人が部屋の中央に到達して、ボスが出現した瞬間、入り口の扉が閉じてしまったのだ。ここから先は後衛の十人の報告になる。扉は五分以上開かなかった。鍵開けスキルや直接の打撃等何をしても無駄だったらしい。ようやく扉が開いた時――」 ヒースクリフの口許が固く引き結ばれた。一瞬目を閉じ、言葉を続ける。 「部屋の中には、何も無かったそうだ。十人の姿も、ボスも消えていた。転移脱出した形跡も無かった。彼らは帰ってこなかった……。念の為、基部フロアの黒鉄宮までモニュメントの名簿を確認しに行かせたが……」 その先は言葉に出さず、首を左右に振った。俺の隣りでアスナが息を詰めた。絞りだすように呟く。 「十……人も……。なんでそんな事に……」 「結晶無効化空間……?」 俺の問いをヒースクリフは小さく首肯した。 「そうとしか考えられない。アスナ君の報告では74層もそうだったという事だから、おそらく今後全てのボス部屋が無効化空間と思っていいだろう」 「バカな……」 俺は嘆息した。緊急脱出不可となれば、思わぬアクシデントで死亡する者が出る可能性が飛躍的に高まる。死者を出さない、それはこのゲームを攻略する上での大前提だ。だがボスを倒さなければクリアも有り得ない……。 「いよいよ本格的にデス・ゲームになってきたわけだ……」 「だからと言って攻略を諦める事はできない」 ヒースクリフは目を閉じると、ささやくような、だがきっぱりとした声で言った。 「結晶による脱出が不可な上に、今回はボス出現と同時に背後の退路も絶たれてしまう構造らしい。ならば統制の取れる範囲で可能な限り大部隊をもって当たるしかない。新婚の君たちを召喚するのは本意ではなかったが、了解してくれ給え」 俺は肩をすくめて答えた。 「協力はさせて貰いますよ。だが、俺にとってはアスナの安全が最優先です。もし危険な状況になったら、パーティー全体よりも彼女を守ります」 ヒースクリフはかすかな笑みを浮かべた。 「何かを守ろうとする人間は強いものだ。君の勇戦を期待するよ。攻略開始は三時間後。予定人数は君たちを入れて三十二人。75層コリニア市ゲートに午後一時集合だ。では解散」 それだけ言うと、紅衣の聖騎士とその配下の男たちは一斉に立ち上がり、部屋を出て行った。 「三時間かー。どうしよっか」 鋼鉄の長机にちょこんと腰掛けて、アスナが訊いてきた。俺は無言でその姿をじっと見つめた。白地に赤の装飾が入ったワンピースの戦闘服に包まれた伸びやかな肢体、長く艶やかな栗色の髪、くるくると輝く榛色の瞳――その姿はかけがえの無い宝石のように美しい。 いつまでも俺が視線を逸らさないでいると、アスナはなめらかな白い頬をわずかに赤く染めて、 「ど……どうしたのよ」 照れくさそうに笑った。俺はためらいながら口を開いた。 「……アスナ……」 「なあに?」 「……怒らないで聞いてくれ。今日のボス攻略戦……参加しないで、ここで待っていてくれないか」 アスナは俺をじっと見つめると、少し悲しそうにうつむきながら言った。 「……どうしてそんな事言うの……?」 「ヒースクリフにはああ言ったけど、クリスタルが使えない場所では何が起こるかわからない。怖いんだ……君の身にもしものことがあったら……って思うと……」 「……そんな危険な場所に、自分だけ行って、わたしには安全な場所で待ってろ、って言うの?」 アスナは立ち上がると、昂然とした歩調で俺の前に歩み寄ってきた。その瞳に激情の炎が燃えている。 「もしそれでキリト君が帰ってこなかったら、わたし自殺するよ。もう生きてる意味ないし、ただ待ってた自分が許せないもの。逃げるなら、二人で逃げよう。キリト君がそうしたいならわたしはそれでもいい」 言葉を切り、右手の指先を俺の胸の真中に当てた。瞳が柔らかくなる。口元にかすかな微笑が浮かぶ。 「でもね……。今日参加する人はみんな怖がってると思う。逃げ出したいと思う。なのに何十人も集まったのは、団長とキリト君、間違いなくこの世界で最強の二人が先頭に立ってくれるから……なんじゃないかな……。キリト君がそういうの嫌いなのはわかってる。でも、他の人たちのためじゃなくて、わたしたちのために……二人で元の世界に帰って、もう一度出会うために、一緒にがんばってほしい」 俺は右手を上げ、自分の胸に添えられたアスナの指先をそっと包み込んだ。彼女を失いたくないという痛切な感情が胸に突き上げてくる。 「……ごめん……俺、弱気になってる。本心では、二人で逃げたいと思ってるんだ。アスナにも死んで欲しくないし、俺も死にたくない。現実世界に……」 アスナの瞳をじっと見つめ、その先を口にする。 「現実世界に、戻れなくてもいいから……あの森の家でいつまでも一緒に暮らしたい。ずっと……二人だけで……」 アスナはもう片方の手で自分の胸元をぎゅっと掴む仕草をした。何かに耐えるように目を閉じ、眉根を寄せる。わずかに開いたその唇から、切ない吐息が漏れた。 「ああ……夢みたいだね……。そうできたら、いいね……。毎日、一緒に……いつまでも……」 そこで言葉を切り、はかない希望を断ち切るように唇をきつく噛み締めた。まぶたを開け、俺を見上げた表情は真剣だった。 「キリト君。考えたことある……? わたしたちの、本当の体がどうなってるか」 俺は虚を突かれて黙り込んだ。それは、多分全プレイヤー共通の疑問だったろう。だが現実世界と連絡する方法が無い以上、考えても詮無いことだ。皆漠然とした恐怖を抱きつつも、あえてその疑問に正面から向き合うことを避けていた。 「覚えてる? このゲームが始まって何週間か経った頃に、ほとんど全部のプレイヤーが半日くらい回線切断するっていう事件があったじゃない」 確かにそういう事があった。俺も十時間ほど記憶が飛んで驚いたのを覚えている。ほぼ全員が一日以内に復帰したのだが、それでもかなりの人数が戻ってこなかった。その事件は〈大切断〉と呼ばれ、サーバーダウンや、当局による救出の試みであるといった様々な憶測が飛んだのだが……。 「わたし、多分あのときに、全プレイヤーが一斉にあちこちの病院に移されたんだと思う。だって、ふつうの家で何年も植物状態の人間を介護するなんて無理だよ。病院に収容して、改めて回線を繋ぎなおしたんじゃないかな……」 「……言われればそうかもしれないな……」 「わたしたちの体が、病院のベッドの上で、いろんなコードに繋がれて、どうにか生かされてるって状況なんだとしたら……そんなの、何年も無事に続くとは思えない」 俺は不意に自分の全身が希薄になっていくような不安感に襲われた。お互いの存在を確かめるように、アスナをぎゅっと抱き寄せる。 「……つまり……ゲームをクリア出来るにせよ出来ないにせよ、それとは関係なくタイムリミットは存在する……ってことか……」 「……それも、個人差のある、ね……。ここじゃ『向こう』の話題はタブーだから、今までこの話を人としたことはないんだけど……キリト君は別だよ。わたし……わたし、一生キリト君の隣にいたい。ちゃんとお付き合いして、本当に結婚して、一緒に歳を取っていきたい。だから……だから……」 その先は言葉にならなかった。アスナは俺の胸に顔を埋め、堪えきれない嗚咽を洩らした。俺はその背中をゆっくりと撫でながら、代わりに言葉を続けた。 「だから……今は戦わなきゃいけないんだな……」 恐怖が消えたわけではなかった。だが、アスナが折れそうな心を必死に支えて運命を切り拓こうとしているのに、俺が挫けることなどどうしてできるだろう。 大丈夫――きっと大丈夫だ――二人なら、きっと――。 胸の中に忍び込んでくる悪寒を振り払うように、俺はアスナを抱く腕に力をこめた。 21 75層コリニア市のゲート広場には、すでに攻略チームと思しき、一見してハイレベルとわかるプレイヤー達が集結していた。俺とアスナがゲートから出て歩み寄っていくと、皆ぴたりと口を閉ざし緊張した表情で目礼を送ってきた。中には右手でギルド式の敬礼をしている連中までいる。 俺は大いに戸惑って立ち止まったが、隣のアスナは慣れた手つきで返礼し、俺の脇腹を小突いた。 「ほら、キリト君はリーダー格なんだからちゃんと挨拶しないとだめだよ!」 「んな…」 ぎこちない仕草で敬礼する。今までのボス攻略戦で集団に属したことは何度もあったが、このように注目を集めるのは初めてだ。 「よう!」 景気良く肩を叩かれて振り返ると、カタナ使いのクラインが悪趣味なバンダナの下でにやにや笑っていた。驚いたことにその横には両手斧で武装したエギルの巨体もある。 「なんだ…お前らも参加するのか」 「なんだってことはないだろう!」 憤慨したようにエギルが野太い声を出した。 「今回はえらい苦戦しそうだって言うから、商売を投げ出して加勢に来たんじゃねえか。この無私無欲の精神を理解できないたぁ…」 大げさな身振りで喋りつづけるエギルの腕をポンと叩き、 「無私の精神はよーくわかった。じゃあお前は戦利品の分配からは除外していいのな」 そう言ってやると途端に巨漢はつるつるの頭に手をやり、眉を八の字に寄せた。 「いや、そ、それはだなぁ…」 情けなく口篭もるその語尾に、クラインとアスナの朗らかな笑い声が重なった。笑いは集まったプレイヤー達にも伝染し、皆の緊張が徐々に解れていくようだった。 午後一時ちょうどに転移ゲートから新たな数名が出現した。真紅の長衣に巨大な十字盾を携えたヒースクリフと、血盟騎士団の精鋭達だ。彼らの姿を目にすると、プレイヤーたちの間に再び緊張が走った。単純なレベル的強さなら俺とアスナを上回るのはヒースクリフ本人だけだと思われるが、やはり彼らの結束感には迫力を感じずにいられない。白赤のギルドカラーを除けば皆武装も装備もまちまちだが、醸し出す集団としての力はかつて目にした軍の部隊とは比べ物にならないと思わせる。 聖騎士と四人の配下は、プレイヤーの集団を二つに割りながらまっすぐ俺たちの方へ歩いてきた。威圧されたようにクラインとエギルが数歩下がる中、アスナだけは涼しい顔で敬礼を交わしている。 立ち止まったヒースクリフは俺たちに軽く頷きかけると、集団の方に向き直って言葉を発した。 「欠員は無いようだな。よく集まってくれた。状況はすでに知っていると思う。厳しい戦いになるだろうが、諸君の力なら切り抜けられると信じている。――解放の日のために!」 ヒースクリフの力強い叫びに、プレイヤー達は一斉にときの声で応えた。俺は彼の磁力的なカリスマに舌を巻いていた。いきおい社会性に欠けるきらいがあるコアなネットゲーマーの中に、よくこれほど指導者の器を持った人物がいたものだ。あるいはこの世界が彼の才能を開花させたのか。現実世界では何をしていた男なのだろう……。 俺の視線を感じ取ったようにヒースクリフはこちらを振り向くと、かすかな笑みを浮べ、言った。 「キリト君、今日は頼りにしているよ。〈二刀流〉、存分に揮ってくれたまえ」 低くソフトなその声にはわずかな気負いも感じられない。予想される死闘を前にしてこの余裕はさすがと言わざるを得ない。 俺が無言で頷くと、ヒースクリフは再び集団を振り返り、軽く片手を上げた。 「では、出発しよう。目標のボスモンスタールーム直前の場所までコリドーを開く」 言って、腰のパックから濃紺色の結晶アイテムを取り出すと、その場のプレイヤー達から「おお……」という声が漏れた。 通常の転移結晶は、指定した街の転移門まで使用者ひとりを転送することができるだけだが、今ヒースクリフの手にあるのは〈回廊結晶〉、コリドークリスタルというアイテムで、任意の地点を記録し、そこに向かって瞬間転移ゲートを開くことができるという極めて便利な代物だ。 だがその利便性に比例して希少度も高く、NPCショップでは販売していない。迷宮区のトレジャーボックスか、強力なモンスターからのドロップでしか出現しないので、入手してもそれを使おうというプレイヤーはそうはいない。先ほど皆の口から嘆声が漏れたのは、レアな回廊結晶を目にしたこと対してと言うよりも、それをあっさり使用するというヒースクリフに驚いたということのほうが大きいだろう。 そんな皆の視線など意に介せぬふうで、ヒースクリフは結晶を握った右手を高く掲げると「コリドー・オープン」と発声した。極めて高価なクリスタルは瞬時に砕け散り、彼の前の空間に青く揺らめく光の渦が出現した。 「では皆、ついてきてくれたまえ」 俺たちをぐるりと見渡すと、ヒースクリフは紅衣の裾をひるがえし、青い光の中へ足を踏み入れた。その姿は瞬時に眩い閃光に包まれ、消滅する。間を置かず、四人のKoBメンバーがそれに続く。 いつの間にか、転移門広場の周囲にはかなりの数のプレイヤーが集まってきていた。ボス攻略作戦の話を聞いて見送りに来たのだろう。激励の声援が飛ぶ中、剣士たちは次々と光のコリドーに飛び込み、転移していく。 最後に残ったのは俺とアスナだった。俺たちは小さく頷きあうと、手をつなぎ、同時に光の渦へと体を躍らせた。 軽い眩暈にも似た転移感覚のあと、目を開くとそこはもう迷宮の中だった。広い回廊だ。壁際には太い柱が列をなし、その先に巨大な扉が見て取れる。 75層迷宮区は、わずかに透明感のある黒曜石のような素材で組み上げられていた。ごつごつと荒削りだった下層の迷宮とは違い、鏡のように磨き上げられた黒い石が直線的に敷き詰められている。空気は冷たく湿り、うすい靄がゆっくりと床の上をたなびいている。 俺の隣りに立ったアスナが、寒気を感じたように両腕を体に回し、言った。 「……なんか……やな感じだね……」 「ああ……」 俺も首肯する。 今日に至る二年間の間に、俺たちは七十四にも及ぶ迷宮区を攻略しボスモンスターを倒してきたわけだが、さすがにそれだけ経験を積むと、その棲家を見ただけで主の力量を何となく計れるようになる。 周囲では、三十人のプレイヤーたちが三々五々固まってメニューウインドウを開き、装備やアイテムの確認をしているが、彼らの表情も一様に固い。 俺はアスナを伴って一本の柱の陰に寄ると、その華奢な体にそっと腕をまわした。戦闘を前に、押さえつけていた不安が噴き出してくる。体が震える。 「……だいじょうぶだよ」 アスナが耳元でささやいた。 「キリト君は、わたしが守る」 「……いや、そうじゃなくて……」 「ふふ」 小さく笑みを洩らして、アスナは言葉を続けた。 「……だから、キリト君はわたしを守ってね」 「ああ……必ず」 俺は一瞬腕に力を込め、抱擁を解いた。回廊の中央で、十字盾をオブジェクト化させたヒースクリフががしゃりと装備を鳴らし、言った。 「皆、準備はいいかな。今回、ボスの攻撃パターンに関しては情報がない。基本的にはKoBが前衛で攻撃を食い止めるので、その間に可能な限りパターンを見切り、柔軟に反撃してほしい」 剣士たちが無言でうなずく。 「では――行こうか」 あくまでもソフトな声音で言うと、ヒースクリフは無造作に黒曜石の大扉に歩み寄り、中央に右手をかけた。全員に緊張が走る。 俺は、並んで立っているエギルとクラインの肩を背後から叩き、振り向いた二人に向かって言った。 「死ぬなよ」 「へっ、お前こそ」 「今日の戦利品で一儲けするまではくたばる気はないぜ」 連中がふてぶてしく言い返した直後、大扉が重々しい響きを立てながらゆっくりと動き出した。プレイヤーたちが一斉に抜刀する。俺も背から同時に二振りの愛剣を引き抜いた。隣で細剣を構えるアスナにちらりと視線を送り、うなずきかける。 最後に、十字盾の裏側から長剣を音高く抜いたヒースクリフが、右手を高く掲げ、叫んだ。 「――戦闘、開始!」 そのまま、完全に開ききった扉の中へと走り出す。全員が続く。 内部は、かなり広いドーム状の部屋だった。俺とヒースクリフがデュエルした闘技場ほどもあるだろう。円弧を描く黒い壁が高くせり上がり、遥か頭上で湾曲して閉じている。三十二人全員が部屋に走り込み、自然な陣形を作って立ち止まった直後――背後で轟音を立てて大扉が閉まった。もはや開けることは不可能だろう。ボスが死ぬか、俺たちが全滅するまでは。 数秒の沈黙が続いた。だだっ広い床全面に注意を払うが、ボスは出現しない。限界まで張り詰めた神経を焦らすように、一秒、また一秒と時間が過ぎていく。 「おい――」 誰かが、耐え切れないというふうに声をあげた、その時。 「上よ!!」 隣で、アスナが鋭く叫んだ。はっとして頭上を見上げる。 ドームの天頂部に――それが貼りついていた。 巨大だ。とてつもなくでかく、長い。百足だ――!? 見た瞬間、そう思った。全長は十メートルほどもあるだろうか。複数の体節に区切られたその体は、しかし、虫と言うよりは人間の背骨を思わせた。灰白色の円筒形をした体節ひとつひとつからは、骨剥き出しの鋭い脚が伸びている。その体を追って視線を動かしていくと、徐々に太くなるその先に、凶悪な形をした頭蓋骨があった。これは人間のものではない。流線型にゆがんだその骨には二対四つの鋭く吊りあがった眼窩があり、内部で青い炎が瞬いている。大きく前方に突き出した顎の骨には鋭い牙が並び、頭骨の両脇からは鎌状に尖った巨大な骨の腕が突き出している。 視線を集中すると、イエローのカーソルとともにモンスターの名前が表示された。〈The Skullreeper〉――骸骨の狩り手。 無数の脚を蠢かせながら、ゆっくりとドームの天井を這っていた骨百足は――全員が度肝を抜かれ、声も無く見守る中、不意にすべての脚を大きく広げ――パーティーの真上に落下してきた。 「固まるな! 距離を取れ!!」 ヒースクリフの鋭い叫び声が、凍りついた空気を切り裂いた。我に返ったように全員が動き出す。俺たちも落下予測地点から慌てて飛び退る。 だが、落ちてくる骨百足のちょうど真下にいた三人の動きが、わずかに遅れた。どちらに移動したものか迷うように、足を止めて上を見上げている。 「こっちだ!!」 俺は慌てて叫んだ。呪縛の解けた三人が走り出す――。 だが。その背後に、百足が地響きを立てて落下した瞬間、床全体が大きく震えた。足を取られた三人がたたらを踏む。そこに向かって、百足の右腕――長大な骨の鎌、刃状の部分だけで人間の身長ほどもあるそれが、横薙ぎに振り下ろされた。 三人が背後から同時に切り飛ばされた。宙を吹き飛ぶ間にも、そのHPバーが猛烈な勢いで減少していく――黄色の注意域から、赤の危険域へと―― 「!?」 そして、あっけなくゼロになった。バーが消滅した。まだ空中にあった三人の体が、立て続けに無数の結晶を撒き散らしながら破砕した。消滅音が重なって響く。 「―――!!」 隣でアスナが息を詰めた。俺も、体が激しく強張るのを感じた。 一撃で――死亡だと――!? スキル・レベル制併用のSAOでは、レベルの上昇に伴ってHPの最大値も上昇していくため、剣の腕前いかんに関わらず数値的なレベルさえ高ければそれだけ死ににくくなる。特に今日のパーティーは高レベルプレイヤーだけが集まっていたため、たとえボスの攻撃と言えど数発の連続技なら持ちこたえる――はずだったのだ。それが、たったの一撃で――。 「こんなの……無茶苦茶だわ……」 かすれた声でアスナがつぶやく。 一瞬にして三人の命を奪った骸骨百足は、上体を高く持ち上げて轟く雄叫びを上げると、猛烈な勢いで新たなプレイヤーの一団目掛けて突進した。 「わあああ―――!!」 その方向にいたプレイヤー達が恐慌の悲鳴を上げる。再び骨鎌が高く振り上げられる。 と、その真下に飛び込んだ影があった。ヒースクリフだ。巨大な盾を掲げ、鎌を迎撃する。耳をつんざく衝撃音。火花が飛び散る。 だが、鎌は二本あった。左側の腕でヒースクリフを攻撃しつつも、右の鎌を振り上げ、凍りついたプレイヤーの一団に突き立てようとする。 「くそっ……!」 俺は我知らず飛び出していた。宙を飛ぶように瞬時に距離を詰め、轟音を立てて振ってくる骨鎌の下に身を躍らせる。左右の剣を交差させ、鎌を受ける。途方も無い衝撃。だが――鎌は止まらない。火花を散らしながら俺の剣を押しのけ、眼前に迫ってくる。だめだ、重すぎる――! その時、新たな剣が純白の光芒を引いて空を切り裂き、下から鎌に命中した。衝撃音。勢いが緩んだその隙に、俺は全身の力を振り絞って骨鎌を押し返す。 俺の真横に立ったアスナは、こちらを一瞬見て、言った。 「二人同時に受ければ――いける! わたし達ならできるよ!」 「――よし、頼む!」 俺は頷いた。アスナが隣にいてくれると思うだけで無限の気力が湧いてくる、そんな気がする。 再び、今度は横薙ぎに繰り出されてきた骨鎌に向かって、俺とアスナは同時に右斜め斬り降ろし攻撃を放った。完璧にシンクロした二人の剣が、二筋の光の帯を引いて鎌に命中する。激しい衝撃。今度は、敵の鎌が弾き返された。 俺は、声を振り絞って叫んだ。 「大鎌は俺たちが食い止める!! みんなは側面から攻撃してくれ!」 その声に、ようやく全員の呪縛が解けたようだった。雄叫びを上げ、武器を構えて骨百足の体に向かって突撃する。数発の攻撃が敵の体に食い込み、ようやく初めてボスのHPバーがわずかに減少した。 だが、直後、複数の悲鳴が上がった。鎌を迎撃する隙を縫って視線を向けると、百足の尾の先についた長い槍状の骨に数人が薙ぎ払われ、倒れるのが見えた。 「くっ……」 歯噛みをするが、俺とアスナにも、少し離れて単身左の鎌を捌いているヒースクリフにも、これ以上の余裕はない。 「キリト君っ……!」 アスナの声に、ちらりと視線を向ける。 ――だめだ! 向こうに気を取られると、やられるぞ! ――そうだね……――来るよ……! ――左斬り上げで受ける! 瞳を見交わすだけで意思を疎通し、俺とアスナは完璧に同期した動きで鎌を弾き返した。 時折上がるプレイヤーの悲鳴、絶叫を無理矢理意識から締め出し、俺たちは凶悪な威力を秘めた敵の攻撃を受けることだけに集中した。不思議なことに、途中から俺たちは言葉を使わず、お互いを見ることすらしなくなっていた。まるで思考がダイレクトに接続されたようなリニア感。息もつかせぬペースで繰り出されてくる敵の攻撃を、瞬時に同じ技で反応し、受け止める。 その瞬間――限界ぎりぎりの死闘のさなか、俺はかつてない程の一体感を味わっていた。アスナと俺が融合し、ひとつの戦闘意識となって剣を振りつづける――それはある意味、途方も無く官能的な体験だった。時折繰り出される敵の強攻撃を受ける余波で、わずかずつHPが減少していくが、俺たちはそれすらもすでに意識していなかった。 |